衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

マニピュレーターと私の友だちたち ~加奈子のおかげで思い出したこと

 マニピュレーターが、その獲物となっている人を孤立させるということはよく知られている。私のマニピュレーターも、この20年の間に、私の友だちのほとんどを私たちの日常生活から追い出してしまった。

 しかもそのやり方は、誰からも分からない、私本人さえ気づかないものだった。

 

 そのマニピュレーターに出会うまでは、私には一生の大親友1人と、親友と言える2~3人の女の子と、さらにいつも私の研究室やアパートに集まってきたいくつかのグループの仲間たちがいた。それは、日本の大学にいたころもそうだったし、フランスに来てからもそうだった。フランスの地方都市で語学準備の6ヶ月を過ごしたときには、同年に留学してきた日本人同士の仲間がまるで家族のようにいつも集まっていたし、フランス人の友だちこそ少なかったけれど、中国人、台湾人、韓国人、スペイン人、イラン人、アルジェリア人、グアドループ人、モロッコ人、スリランカ人、カンボジア人、ベトナム人、チベット人、スーダン人、マリ人と、たくさんの国籍のいろんな友だちがいた。

 彼らはそれぞれにいろんな経歴や専門分野を持っていて、年齢もさまざまだった。私はそのなかで、特にコンプレックスを感じることもなく、私なりの個性を発揮して楽しく生きていたと思う。私には美術系や文学系の友だちが多かったから、集まっては芸術論議に花を咲かせることも多かったし、友だちとそれぞれの作品を批評しあったり、いっしょにコンクールに出品したり、自作の詩やシナリオを贈られたりすることもあった。私には私の居場所があり、それはとても自然なことだった。

 

 そのころの写真を、つい最近やっと時間と気力が出来て整理し、一冊のアルバムにまとめた。20年ちょっと前の私は、友だちに囲まれて笑いながら、お酒を片手にタバコを吸っていたり、私に結婚を申し込んだ中国人や韓国人の男友だちと肩を組んだり、エクスカージョンで行った観光地でお城を背景に記念写真を撮ったりしている。

 そのアルバムを、先週オリオルが本棚から引っ張り出して、何度も見ていた。「ぼくにちょうだい」とまで言った。「だめ。」

 「お母さん、かわいい。でも、今もまだ大丈夫だよ。あんまり違わないよ。」

 どう考えても見え透いたお世辞を言う。でも、お母さんがそんなふうに元気で幸せだったときがあるというのは、子どもにはうれしいことなのかもしれない。

 

 私はそのころの友だちを、マニピュレーターとの交際を通じて、気づかないうちに失ってしまった。どうやってそんなことが可能だったのか、具体的には思い出せない。自分でも、どれだけぼんやりな人間なんだろうと思うけれど、マニピュレーターは、他人の無意識を操作するから、思い出せないのは当然でもある。思い出せるくらいなら、もっと早くに気づいて、なんとかしている。

 

 私が地方都市で語学の勉強をしていた6ヶ月の間に出来た友だちは、期間こそ短かったけど、期待と不安と、発見と失望の入り交じった、同じ興奮の中を生きた同士の特別なつながりがあった。人生のそういう時期には、人は感受性が特別に鋭くなる。そのときに出会った人たちは、人生に強い印象を残す。

 それに、それだけではなく、おそらくいっしょにいた時間の合計で言えば、日本の大学時代数年間におよぶつき合いの友だちと同じくらいの時間、いっしょにいたことになるのではないかと思う。語学留学時代の友だちとは、多くは同じ学生寮に住み、同じ大学の語学コースへ通い、同じバスに乗り、同じアトリエに参加し、同じ旅行に参加し、毎朝・毎晩いっしょに学食へ行き、一緒にプールや買い物に行っていたのだから。

 

 マニピュレーターと付き合うようになってから、私はそれらの自分の友だちと付き合い続けることを、悪いことのように感じるようになった。

 マニピュレーターが私の友だちをはっきりと批判したわけではないと思う。ただ、時折見せる日本人や外国人留学生への軽蔑の態度や、あるタイプの若者たちへの蔑視、芸術や文学愛好家のこき下ろし、など、私が愛しているものを、非常につまらない、取るに足りないものと見せる手腕にとても長けていた。それを、まるで私がそういったことを愛しているとは知らなかったかのように振舞いたおすので、当時の私には、悪気があるとは到底想像もできなかった。そのようなものにうつつを抜かしている連中は、まるっきり存在する意味さえもない、まさか君はそんな連中と同じじゃないだろう、君は義理で付き合っていただけなんだ、というように、私に思い込ませるのだ。

 もちろん、私の奥底では、そんなことはうそだと分かっているのに、自分まで取るに足らないと思われたくなかったのか、相手の価値観を尊重したからなのか、私は自分から少しずつ、それまでの交友関係から遠ざかっていった。

 マニピュレーターといっしょに自分の友だちに会うと、自分が気まずい思いをしたり、友だちが居心地が悪いのが分かったりということが何度かあったと思う。どうしてそうなったのか、やはりよく思い出せない。彼は、一見明るく素直で親切で、話題に富み、どんな人とも話をあわせることが出来た。場の雰囲気を和ませるのも上手いと思われている。ただなんとなく、彼がいるといつの間にか会話が彼に頼りがちになって、彼の一人独壇場になり、彼がなにかで席を立つと、変な空気が流れることがよくあった。彼が一人でしゃべりすぎると言って腹を立てる人も、時々いる。ただ、だからと言って、誰も彼のどんな言動がみんなになんとなく後味が悪い感じを持たせるかのか、言い表すことは出来ない。結局自分の思い違いか、自分がコンプレックスを持っているからか、などと、自分のせいにしてやり過ごしてしまう。あんなにサンパでおもしろい人が、自分に対してこっそりとげを刺して行ったとは思えないから。

 

 友だちのほうからはっきりと、私のマニピュレーターから「軽蔑されていると感じたから、彼のいるときには行かない」と言われたことが、一度だけある。その友だちも、非常に親しかった人の一人で、感受性の鋭い、ちょっと変わった子だから、その指摘ができたということは例外的だと思う。普通の人には、そこまではっきりと、何をされたのかが分からないはずだ。そして、その友だちとの関係も、今は切れてしまっている。

 

 マニピュレーターをつれずに一人で自分の友だちに会おうとすると、今度は後ろめたいことをしているような気持ちになった。

 それは「そんな連中」と付き合うということへの後ろめたさと、誰か(この場合マニピュレーター)を裏切ることへの後ろめたさの両方が交じり合ったものだった。もしかすると、そう感じることへの、古い友だちへの後ろめたさもあったかもしれない。

 友だちに会ったことで「悪いことをした」、マニピュレーターを裏切っている、と感じていたのだから、おそらく彼の態度のなかに何らかの報復があったに違いないのだけど、それが何だったのか、やはり記憶にない。

 私はそんな居心地の悪さから逃げ出すために、古い友だちから次第に遠ざかった。意識的に付き合いをやめたのではなく、なんとなくそうなったのだ。彼らと付き合わなくても、私には新しい知り合いがたくさん出来たではないか、と思っていた。ただそれは、私の価値観で選び取った私の友だちではなく、彼の幼なじみ、同僚、大学の同級生、家族、といった人たちだった。

 

 マニピュレーターといっしょにいたせいで友だちを失ったという自覚は、マニピュレーターについていろいろ学んで初めて、引き出されたことだ。しかも、初めてその知識を得たときには、「そうともいえるかもしれないけど、それはそれで偏った見方だなあ」と思い、マニピュレーターを弁護するように、「それにしたって、あの人は私に良かれと思っていたに違いない」とか「事実彼らといっしょにいて、私の将来になんの役に立ったのか」などと考えていた。ただ、離れて1年、2年と経つうちに、私にかかっていた魔力は弱まり、マニピュレーター理論はずばり当たっていると認められるようになって来た。

 

 そして今日、私がそんなことを考えるのは、整理した20年前の写真に写る自分の姿と、そのなかに頻繁に出てくるある当時かなり親しくしていた加奈子のおかげだ。

 私が最近整理したのは、写真だけではない。古い手紙の束も大部分処分した。その手紙の束のなかに、ある別の友人に向けた手紙の下書きがあった。そのなかに、加奈子のことが書かれている。

 それは、私がマニピュレーターと付き合いはじめて2~3年目に書いたもののようだった。加奈子は日本へ帰国して、東京で働いていた。それでも、時々手紙のやり取りがあった。加奈子は、私が語学留学生時代に親しくしていた子で、私と違って学歴なんかはないのだけど、フランス語も上手くて、なんでも自力で道を切り開いていくマイペース人間だった。私より若かったけど、私よりずっとしっかり者で、自分のやりたいこととやりたくないこと、好きな人嫌いな人がはっきりしていた。私たちはなんとなく気が合って、別にパリ時代の友だちのように、インテリなテーマで議論することなんかはないけど、・・・というかむしろほとんど口を利かないくらいだったけど、それでもいっしょにいて落ち着く相手だった。加奈子は、不当に人を差別したり、お世辞を言ったりはせず、常に自然体だったからだと思う。仲間内でも変わり者で嫌われていたイケテナイ男の子とも、ずばずば文句を言いつつ、真正面から付き合っていたし、ほかのみんなより年上で高学歴で、留学目的も明確だったために、みんながちょっと距離を感じていたみたいな私のことを、「りんちゃん」と呼んで平等に扱ってくれていた。

 その加奈子から、フランスに遊びに来ているという連絡をもらったという話が、私の手紙には書かれていた。私は、その手紙の内容を読んで、自分がこんなことを書いたなんてとびっくりした。大慌てで先を読み進んだくらい、自分で何をしたのか覚えていなかった。

 私は、加奈子から連絡が来てうれしかったようなかすかな記憶があるにもかかわらず、そのとき私は加奈子を激しく攻撃しているのだ。

 加奈子は、知り合いのフランス人の家に泊めてもらっていた。その人に会いに、フランスに来たらしかった。ところが、その人がなにかの都合で加奈子を、残り2日のフランス滞在中泊めることができなくなり、加奈子は私のアパートに泊めて欲しいと言ってきたのだった。

 そのころ私のアパートは、それまで2年間シェアしていたルームメイトが出て行った後で一部屋空いていた。家具付きアパートだったから、その空き部屋にはベッドもあった。友だちを一人泊めるくらい、なんでもなかった。加奈子は、彼女の帰国前から私のアパートをよく知っていた。私はいったんは泊めるといったのだけど、その後、やっぱり断った、とその手紙に書いていた。

 私は自分の目を疑いそうになった。いったん泊めると言ってから、断るまでの数日間に何があったのか、手紙には書かれていなかった。だけど、断る理由は書かれていた。それは、加奈子が宿泊場所の予定もなくフランスにふらっとやってきて、いつまで泊めてもらえるかも確認しないで友人宅に居候していて、そのだらしなさの結果、自分が迷惑をこうむる、というもので、さらに、加奈子が泊まりたいといっている二日のうち、一日は自分は留守にするから、留守中に自分のうちに誰かがいるのはいやだ、というものだった。

 これ、本当に私なの?と思った。他人の口から出たみたいな言葉。誰かの・・・そう、マニピュレーターの。

 きっと、私がいない一日というのは、マニピュレーターに会う日だったに違いない。もしかすると、マニピュレーターに、今週末会いに来ない?と言われて、「加奈子が来るから」と言ったら、加奈子の旅行について、彼がそのような批判をしたのじゃないだろうか。そのうえ、加奈子なんかに君のいない間に君のアパートを使わせたら、なにか問題が起こったときどうするんだい?と、まるで加奈子が問題を起こすような人間であるかのように、あるいは泥棒でもするかのように言ったに違いない。そして、そんな非常識なことを許す私を、こっそりと批判するように、物知り顔でたしなめたのではないか。

 それが、私を一人占めしたいというちょっと子どもじみた、でも許せる嫉妬心からであれば問題ないかもしれない。そのときは、そうとも解釈したのかもしれない。

 でも、今思えば、それは私をコントロールすることへの喜び、加奈子を困らせ路頭に迷わせる喜び、自分にはそんな力があることを証明する喜びだったに違いない。そういうと、なんのために?そんな人いないんじゃない?それはちょっと被害妄想だ、と、今の私のほうが頭がおかしいと思われるかもしれないけれど、もしそう思われても、私はそれが正しいことを知っている。

 

 私が断ったときの加奈子の健気な様子がちらりと伺える一文が、その手紙にはあった。加奈子は、「大丈夫、大丈夫」と繰り返し言ったらしい。私が、大丈夫?と聞いたのじゃないのに。私は何のためにか、心を鬼にしなくては、と信じていた。加奈子は、りんちゃんと私の仲ってそんなんじゃないと思ってた、というショックで、泊まるところがない事実よりも、そのことに驚き傷ついただろうと思う。

 私は愕然として「加奈子、ごめんなさい!」と心の中で叫んだ。加奈子に今すぐ連絡して、そのときのことを謝りたいくらいだった。こんなに時間が経って、その後も私が何をしたか分からないから、無理やり謝るために加奈子を探し出すことは返って加奈子に失礼かな、と今はそのままにしているけれど、もしも機会があったら、きっと私は謝ると思う。

 あれは、本当にいわれのない攻撃だった。私はあの時、マニピュレーターの手先になって、私の友だちをわけもなく傷つけたことになる。

 きっと私の忘れてしまっているそんなことが、幾度となくあったんだろう。あの手紙を見つけなければ、永久に戻らない記憶だったのだ。

 そしてそれは、加奈子だけでなく、私のすべての友達に私がしたことなのかもしれない。

 

 加奈子に対するマニピュレーターの侮辱で、私がはっきりとおぼえていことが一つある。それは、私の部屋にあったフォーデルのCDを、彼がばかにしたことだった。何と言ってバカにしたのか、やっぱり覚えてないのだが、そこにこめられた侮蔑は明らかに見て取れた。それが、私と、そのCDをくれた加奈子と、加奈子とフォーデル君のクリップを見て楽しんでいたあのころの私たちを、丸ごとひっくるめて対象とした、冷酷な攻撃だったことを、当時の私はとっさには理解できなかった。でも、それがなんらかの攻撃であることを感じ取って、私はすぐに反撃した。

 これは私の大事な思い出の品で、加奈子との友情の記念なんだ、それをそんな言い方するなんて!と私は感情が高ぶって泣き出した。マニピュレーターは、すぐに羊の皮をかぶって、知らなかったんだ、ごめんよ、君がこんな音楽を好きなはずはないと思ったんだ、と言った。その態度は優しそうだったし、そのごめんは誠実に聞こえたけれど、後で感情が静まってから考えると、やっぱりおかしいと気づく。私の部屋にあったんだから、私がその音楽が好きである可能性はとても高いのに、「そんなはずはないと思ったから、傷つけると思わなかった」というのはありえないので、嘘をついているのだし、やはりそこには、「こんなしょうもない音楽を」というニュアンスを漂わせていて、なおも侮辱を続けているのだ。

 

 今はそのように分析できるけれど、当時の私はマニピュレートに対して全く無力だった。

 私は反撃をしたにもかかわらず、最終的にはまたしても侮辱され、それに傷つき、そして優しくされているのに納得できないのは自分になにか問題があるのだと考えた。それで問題が見つかれば、私はそれを解決して前に進むことが出来るのだけど、そもそも問題は私のなかにはないのだから、それを見つけることが出来ず、私は自信を失っていく。

 それが、マニピュレーターとの生活の負のスパイラルの一端で、そうしたことがずっと積み重なっていく。