衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

ラインハルトとの16年間 ㉕ヘルメットの話とずれたお節介

 この話は、フィロメナがバカだという以外に、以前はあまり私の関心を惹かなかったエピソードである。実際、すごくバカバカしいと思う。

 

 ラインハルトが1~2歳のころのことだと思う。まだ歩行が得意でない時期、小さな赤ちゃんは、よくまたがって乗る車のようなもののおもちゃで遊ぶ。ラインハルトも、大きなトラックのおもちゃを買ってもらい、それに乗って遊んだ。

 ラインハルトが好きだったこと、繰り返し繰り返しやったことは、そのトラックの荷台のところにまたがって、アパートの短い廊下を突き進み、ゴーンと向こう側の壁に激突することだった。

 この話は、ラインハルトに聞いたのではなく、私は何度もフィリスに聞かされた。この子ったら、壁に激突するのよ、ゴーン!ゴーン!ゴーン!そりゃあもうたまらなかったわ。

 そしてフィリスの話は、ラインハルトにヘルメットを購入し、そのトラックで遊ぶ時にはいつもそれをかぶらせた、と言って終わった。

 

 それはいったいどうしてだろう?ヘルメットをかぶらないと危険だったのだろうか?転んだり、壁で頭を打ったりするのではないのに?私だったら、どちらかというと壁にクッションを立てかけて、壁やトラックに傷をつけないようにするとか、多少衝撃を和らげるとかすると思うのだけど、なぜヘルメット?

 それは今でもわからない。何かした、というのがいいのかもしれない。自分は息子を守っている、と考えるのがよかったのかもしれない。

 そのエピソードを語るとき、フィリスは嬉しそうに、おかしそうに笑った。何かおかしいのか、やっぱりわからない。自虐的に、そんな変なことをしたのよ、私は、という意味だろうか?

 

 なんだか、ずれているのだ。子どもに必要なことや、子供が求めていること、たぶんこの場合、ゴーンと当たるときの衝撃が刺激的で面白いとか、音がいいとか、スピード感がいいとか、そういうことだと思うから、私だったら、安心してそれを楽しめるように環境を整えると思う。

 

 フィリスも、ラインハルトも、いつもこういうふうに少しずれている。ずれていて、しなくてもよい干渉をする。過干渉できるのがうれしいのかもしれない。

 もちろん、過干渉と言えば、コリーヌの脚や、イアナの耳だって、そうだ。

 

 赤ん坊のラインハルトは、大した抵抗もせずに、フィリスのかぶらせるヘルメットをかぶっている、というのが支配欲が満たされて、彼女は満足なのかもしれない。

 

 今ふと思ったが、それが5歳くらいの小さな子が考えたことなら、納得がいくかもしれない。全然理にかなっていないけど、本人はいい気になってやっている、という。

 それから、やっぱり見た目の問題かもしれない。浅はかだけど。子どもの安全を守ろうとしているように彼女には見えるのかもしれないし、クッションを置くより、トラックにヘルメットのほうが見た目のまとまりはいいかもしれない。

 でもやっぱりバカなのだという気がしてしまう。

 

 こういうずれた感じのことを、私の双子にもフィリスはいろいろしたように思う。

 例えば、ドゥドゥ。…そういえば、ドゥドゥという言葉、同等の日本語の訳語がない。ライナスの毛布のことだけど、欧米ではとても一般的なものだ。たぶん、欧米では、母親が赤ちゃんを独立した個人として最初から結構突き放して(?)育てるので、赤ちゃんはそういう安心するためのオブジェを持っていることが多い。批判も多いけど、おしゃぶりも一般的。一方、母親が添い寝をしたりする日本では、赤ちゃんはそういうオブジェをあまり必要としないようだ。日本の赤ちゃんのライナスの毛布は、母親である。こちらでは、それを不健康なこととみなす人もいる!

 

 キャスはおしゃぶりもドゥドゥも嫌で、親指を吸う癖があった。でもこれも目的は同じで、安心するための行為だ。

 オリオルは、出産時に誕生祝としてコリーヌがくれたフワフワのウサギのぬいぐるみが大好きで、その「ラパン」がオリオルのドゥドゥだった。ラパンをなくすと大変なことになるので、洗濯できるように二匹目を購入し、保育園に行き始めた時には保育園でなくさないように3匹目を買い、幼稚学校ではお昼寝オブジェとして持ち帰らずに学校の棚にしまっておかなくてはならなかったので、さらにもう一匹、日本旅行の際にもう一匹、…と増えた。オリオルはそれらのすべてのラパンをとても愛していて、いつも群れでウサギを飼っているみたいだった。そんなにもラパンを気に入っていたのに、フィリスは、自分が発明したドゥドゥをうちの子たちに持たせようとしたことがある。

 それは、ごく普通の平織りの木綿の布でできたハンカチのようなものだ。サイズもちょうどそれくらいで、ガーゼのような赤ちゃんが気に入るような手触りの布地ではなかった。確かイケアで彼女が買った、赤ちゃんのシーツか何かを作るための布の残りで、彼女はそれをみんな同じハンカチサイズにカットして縁を縫い、孫に持たせていた。

 これだったら、なくしてもいくらでもできてお金がかからず、なくなったとか、見た目や手触りが変わったと言って子供が不信感を持つこともない、素晴らしいものだと自分で言っていた。

 でも見た目もかわいくないし、何の感情移入もできないし、フワフワもしていない。こんなものを子供が受け入れるんだろうか?と思ったが、コリーヌのところの二人、長男のジャックと妹のローズは、この味気ないドゥドゥを使っていたという。その成功に気を良くして、うちにも押し付けてきた。

 なんだか、こんなものをドゥドゥとしているなんて、かわいそうに思える。そのちょっとみすぼらしいものを持たせることに喜びを見出しているのではないかと、勘ぐってしまう。

 その時にはすでにオリオルのラパンも、キャスの指吸も定着していたから、私は受け取りはしたが、子供に与える気など全然なかった。ラインハルトが何か言っても、「でも子供たちには見せたけど、興味を示さないわ」と適当なことを言って流し続けた。フィリスは時々私に、「カッサンドラの指吸の癖は治さなくてはいけません。このドウドゥを使いなさい。」と言ったけれど、キャスがそう簡単に自分の習慣を変えないのはわかっていたし、フィリスのドゥドゥなど我が子に持ってほしくなかった。フィリスは、機会さえあればキャスに自分のハンカチ・ドゥドゥを売り込んでいるのを見て、私は気分が悪かったが、結局キャスは受け入れることはなかった。

 フィリスはその後も何回か、そろそろ新しいのがいるだろうなどと言って新しいハンカチ・ドゥドゥを持ち込んだけど、フィリスがいなくなれば、私は、その押し付けドゥドゥを子供たちの目に入らないところに置き、皿拭きの布巾に使ったりしていた。

 

 今思えば、はっきりとラインハルトに言って、捨ててしまえばよかったんだと思うけど、そこまでする勇気は、そのときはなかった。子どもたちは時々ままごとでテーブルナフキンに使ったりしていたが、そのうち私の季節外れの衣類の誇り除けなどとして使っているうちに、引っ越しも重なって、今ではうちでは全く見かけなくなっている。

 子供たちは覚えていないようだ。(よかった。)