衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

ラインハルトとの16年間 ⑤「ドニは僕の友達なんだ」

 初めてラインハルトに出会った展覧会と、そのあとのカフェからの帰り道、我々若者グループはみな、途中まで同じメトロに乗った。メトロの車両の出入り口のところにたむろして立って、しゃべるともなくしゃべっている。

 そこでも、ラインハルトが会話を主導していた。彼は私に、どうしてうちの大学を選んだの?と聞いた。私は、二人の研究者の名前を挙げた。日本で論文を読んで、この人たちのいる大学にしようと思ったの、と。

 ラインハルトは、演劇でもするように大げさに両手を広げ、「ねえ、聞いたかい?聞いたのかい、みんな。L先生だってさ!D.L.の講義を聞きに、はるばるこの子は日本から来たんだぜ。」

 私は、もっと一般的な学生にも人気のあったもう一人の教授の名前を忘れられては困ると思い、「X.G.もよ。」と言ったが、ラインハルトは、見事に無視をした。誰かがX.Gについてコメントしようとすると、ラインハルトはX.G.氏を怖ろしくこき下ろした。ほかのメンバーは、X.G.氏への尊敬の念を持っているようだったが、ラインハルトは違った。そして、すぐに話題を変え、D.L.氏のことを言い始めた。「ドニは僕の友達なんだ。」

 

 私は耳を疑った。D.L.氏は、ラインハルトより一回りは年上だし、頭のよさにおいても、性格においても、どう見ても釣り合わなかった。D.L.氏は、論文とその講義から推し量るに、独創性と繊細さを兼ね備えた天才である。

 D.L.とラインハルトが「友達」ということを、この時も、そのあとも私は信じなかった。大げさに言っているか、ラインハルトが一人でそう思っているだけだろう。

 「僕たちはファーストネームで呼び合う仲なんだ。僕が修了論文を書き上げた時、ドニが僕に、『これからは敬語を使わず、対等な関係としてファーストネームで呼び合おう』と提案したんだ。ドニは僕の担当教官だったけど、今では友達さ。」

 その場にいる者で、それに異議を唱える者はいなかったが、同意する者もいなかった。今思えば、「勝手に言ってれば?」というくらいの反応だったと思うが、私は心の中では信じていないのに、ラインハルトがあまりにも強く主張するので、口先では、「そうなの。」と肯定しなくてはならなかった。否定してはかわいそうだという気持ちもあったし、知りもしないことを嘘だと決めつけるのもよくないし、フランス人の感覚では、必ずしも対等でなくても、ファーストネームで呼び合ったりするのは「友達」なのかなと思ったからだ。

 それが、今後のすべてのラインハルトと私のコミュニケーションのパターンとなった。

 

 それでも、ラインハルトのこの話は、私には大変な衝撃だった。ラインハルトが本当には友達でないにしても、個人的なつながりがあるのは確かだった。私にとっては、神のような存在だったD.L.氏が、知り合いの知り合いになったのだ。

 ラインハルトは、「ドニに言わなくっちゃ。今度来た日本人の留学生は、ドニの講義を聞きたくて日本から来たんだって。今度一緒にカフェにでも行こうよ。紹介するよ。」などとまで言った。私は、頭がくらくらした。そんなことが現実になったら、私は一言もしゃべれないだろう。天にも昇るような気持ちである一方、どこか気を許しきれない、何かに対する警戒心が働いた。

 

 PNパーソナリティ障害のある者と、その獲物になる人との最初の出会いにおいては、そのような夢のようなことを実現できる相手であると、PNが獲物に思わせるとされている。私は、マニピュレーターについて書かれた本を最初に読んだとき、そのことが書いてあって驚愕した。D.L.氏と個人的なつながりを持つことは、特に私が望んでいたことではなかったが、望んでさえいない望み以上のことだった。それが私の「夢」かと言われるとそうではなかったが、ラインハルトは、それを私に見せれば、私を、少なくともその部分については、支配できると感じたということだと思う。

 なんのために?という疑問はあるが、「なぜ?」はPNについて考える時の禁句であると、最近ある心理学者から学んだ。

 

 その後長い時間をかけて、ラインハルトには悪いところもあるとわかったけれど、どこか超越的なところがあり、それは私の理解を超えていて、そしてそういう部分でD.L.氏のような人にも認められ、信用されているのだから、その部分だけは真実なのだと私はかなり最後のほうまで信じ続けており、そのマニピュレーターに関する本を読んだ時にも、まだその部分での彼を信じていた。私にとって、D.L.氏に関わることは神聖だったからだろう。彼の言う真実を理解している人なら、絶対に、少なくともその部分は、よきものであるはずだと、それを信じないことはできなかった。

 

 10年経ち、15年経つうち、ラインハルトとD.L.氏の関係の化けの皮は、少しずつはがれてきていた。その事実を、私はなぜかあまり重大視していなかったが、それはおそらく、あまりにも長い時間をかけて徐々に変化したことだったからではないかと思う。

 ラインハルトは時々D.L.氏と待ち合わせて、クーポールなどのカフェで話したりすることがあったし、私の持っているD.L.氏の著書に、ラインハルトが本人のメッセージとサインをもらってきてくれたこともある。私たちは二人で、D.L.氏の奥さんの甥の結婚式に呼ばれたこともあり、ラインハルトと、D.L.氏と3人で、レストランへ食事に行ったことも、一度だけある。D.L.氏の叔父という人物と、ラインハルトは長く交流を持っていた。D.L.氏の叔父は、と空軍元将校のアソシエーションの活動を行っていて、ラインハルトはしょっちゅうその手伝いに駆り出されていた。ラインハルトは、軍に関わることが好きだったし、特に空軍というのはほかの軍隊よりも格が上であると常々言っていた。おそらくラインハルトは、そのような上流社会とのかかわりを持つことで、何かの満足を得ていたのだとも思う。

 だが、ある時、D.L.氏が、ラインハルトとのカフェでの約束をすっぽかした。まじめな人で、そんなことをするというのは信じがたかったが、おそらくあのあたりから、D.L.氏は、ラインハルトとの縁を切ろうと考えていたのかもしれない。

 その後徐々に、ラインハルトは、D.L.氏の分厚い新しい著作を読んでいる私に、「よくそんな難しいものを読めるな。」などと言うようになった。私が、以前出た著作の内容について話したりすると、自分は読んでいない、読んだけど分からなかった、などというようになった。それでもなんの心の痛みも、残念だという気持ちもないようだった。

 なんだかわかっているように見えたけど、実は私が分かりあっていると思っていた大事なことを、結局わかっていなかったのだと、徐々に私にもわかるようになっていった。

 それと同時に、D.L.氏の叔父との付き合いも、彼にとって面倒なものになっていった。「金持ちは人を使うことを何とも思っていない」などと不平を言い、付き合いの回数も徐々に減り、ついに消えていった。

 

 そして私はいつしか、確かに最初はまさかと思ったけれど、D.L.氏も、ラインハルトの獲物だったのではないかと思い至るようになった。ラインハルトは何もわかっていなかったのに、D.L.氏を担当教官とすることによって、修士号を手に入れた。しかも、審査員全員一致の優秀のメンション付きで。ほかの審査員のメンバーの一人が異議を唱えたが、その時D.L.氏が、この論文に「優秀」をつけないで、ほかのどの論文につけるというのか、と強く抗議したという話だ。D.L.氏の学会での評価は高いから、ほかの審査員メンバーは、それを聞き入れたようだ。その話をするとき、ラインハルトは、いつも勝ち誇ったような、その意義を唱えた女性教官を馬鹿にするような態度をとった。

 D.L.氏は、先ほども書いたように、非常に繊細な感性を持つ天才である。そういった人物が、PNの獲物となりやすいという話は、どこででもよく聞くことである。一体具体的にはどのようにしてラインハルトごときが、D.L.氏のような知能の高い人をだませたのかわからないが、きっとそうだったに違いない。だから、ある時ついに、D.L.氏がラインハルトと付き合うのをやめてしまったのだと思う。

 

 もうラインハルトと普通の会話もしないからわからないが、今ではきっと、全くつながりは切れていると思う。多くの彼の「友達」と同じように。