衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

ラインハルトとの16年間 ㉔ノートびりびり事件

  ラインハルトは、自分が子供のころの話はあまりしない。しても、部分的だったり、個別のエピソードだけで、私としては全体像はつかみにくい。

 そのうちのいくつかをこれから書いてみようと思う。

 

 ラインハルトのお姉さんたちは、小学生のころ勉強がよくできた。特にコリーヌは、前にも書いたようにIQが高く、飛び級を進められたくらいだから、クラスで一番というくらいの成績だったんだろう。フィリスの話では、勉強しなさいなどと言わなくても、自分たちで勝手にやっていて、成績に普通に良かったということだ。ところが、ラインハルトは少し違った。

 男の子だから違って当然のような気もするが、お姉さんたちのように自分から勉強をしないので、いつも叱られていたようだ。

 小学生の時、宿題の書き取りをやると、フィリスが「見せなさい」と言った。見せると、汚いと言われ、フィリスはそのページをびりびりと破り取ってしまい、こんな汚い書き取りではだめだと書き直させた、というエピソードをラインハルトが私に話したことがある。お姉さんたちはちゃんとやれるのに、どうしてあなたは!と何度言われたか知れない、と。「汚い」はフィリスがよく言う言葉だ。今書きながら思ったが、フィリスは文盲なのだから、ラインハルトの書き取りがあっていたか間違っていたかは、わからなかったはずである。だから、フィリスが見ていたのは、見た目が「きれいかどうか」だったのだろう。そして、見た目が悪いことは、フィリスにとってはあってはならないことだった。それは、自己愛性背徳者の特徴の一つで、美しいファサードを何より大切にする傾向に合致する。フィリスのやることなすことは、いつもこの原則に従っている。ラインハルトの汚いノートは、フィリスにとって許されないことだった。

 

 その話をしたのが、どういうコンテクストだったのか思い出せない。そのような自分の弱い部分となりえるようなことをラインハルトが話すことは、時々あったように思う。でもその時のラインハルトの言い方は、フィリスは自分は字も読めないくせに、というフィリスへの侮蔑的な気分を表現しているほかは、自分の心が傷ついたというようなことは、何も表現していなかった。まるで人ごとのように、そう言った。あるいはそれは、フィリスに比べれば、自分は、あるいは誰か友人や知り合いの母親は、それほどひどくない、とか、そういう言い訳的なコンテクストだったかもしれない。

 もしかすると、そういう時に、私が今の知識があったら、掘り下げてラインハルトの中にいる小さな傷ついた男の子を見つけ出すことができたかもしれない、とちらりと思う。けれども、ラインハルトは、その小さな男の子を、全力で封印している。その封印が解けそうになる怖ろしい瞬間を、私はこれまでに何度か見たことがあるように思っている。それでも、そのたびに封印は解けず、代わりに彼はさらに大きな力でそこに思いふたをする。

 

 もしかすると、私がフィリスに言われたことで苦しんでいるときに、そんなことは当たり前、というために出てきたエピソードだったかもしれない。その時の、ノートを破られる、しかも一度ではなく繰り返し行われた精神的暴力、自分のやったことを否定される横暴な力を、私はラインハルトの思い出話から聞き取っていた。それは私が感情移入が強いからなのか、本当にそこにラインハルトの隠された痛みがあったのか、わからない。あったのではないかと、いまだに思う。あったのなら、救いようがあるのではないかと、今でも思ってしまう。

 

 しかし、私がいくつかの本で学んだところによると、自己愛性「背徳者」となる人の場合、このラインハルトのエピソードのような、小学生時代よりももっと前の段階、赤ちゃんの時に正しい自己像を投影する鏡を持ちえなかった場合に、精神構造自体に異常をきたしており、そもそも正常な人と根本的な機能の仕方が違うので、掘り下げて救い出すということは不可能だと言われる。

 本当にそこまでおかしいのかどうか、私はいつもそこで立ち止まってしまう。