衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

ラインハルトとの16年間 ②出会う前の私

 私がフランスに来たのは、1998年の2月14日である。29歳の誕生日の前夜だった。

 その前にも、2度ほどフランスに語学研修に来ているが、その後フランスに定常的に住むことになった滞在の最初の日、私は一人でパリ・シャルル・ド・ゴール空港に降り立った。

 バレンタインデー、自分の20代最後の誕生日の前夜、たった一人で夜遅くに大きなバックパックを背負い、シャルルドゴール空港からタクシーで10分ほどのところにある新築のホテルに向かった。当時でもインターネットで予約できたホテルで、空港の近くというのが売り文句だったけど、実際はタクシーで寂しい未開発の場所を10分ほど走ったところにあった。私は20代も終わりであるにもかかわらず、かなりの世間知らずで無鉄砲だったと思う。

 

 日本には、一応「彼氏」がいた。彼は、私とDINKsを理想としていたようだった。大学院の先輩で、院を首席で卒業した優等生だったが、私が本当に好きだったのは、彼と同じ学年の、留年して私と同時に卒業した別の先輩だった。ただ、私は人間としての自分や女の子としての自分にあまり自信がなかったのだと思う。自分の優秀さには自信があったから、優等生とは付き合えたが、素敵な男の子とは付き合えなかった。

 それでも、私はどちらかというと男の子からもてるほうだったと思う。いろんな人から付き合ってくれと言われたことがあるし、大学院時代は私が一番もてた時代で、数人から結婚を申し込まれもした。でも、私の好きなその先輩は、私に好きだとは言ってくれなかったし、私も言わなかった。

 

 「彼氏」とは、一緒に住んでいたわけでもなく、特に彼が卒業して就職してからは、毎晩終電で帰る彼からの電話を待ったり、時々一緒に展覧会へ行ったり、共同研究を行うという付き合いだった。気が合うわけでも、深く理解しあえるわけでもなかったが、私はそういう安全な人を結婚相手として、子供を持って、自分はどこかの大学で研究者にでもなれば、いい人生なんだと思っていた。夜中に毎日かかってくる彼からの電話は、いつも仕事の話で、私には至極退屈だった。それでも私は退屈だとは言わず、ただ「ふんふん」と聞いていた。夜寝るのが遅くなるのが迷惑だと思っていたが、悪いと思って言わなかった。その程度の関係だった。

 そんな薄い関係で、一生の伴侶とするつもりもないではなかったのだから、私はひどく考えなしの女だったと思う。それでも、見本となるよい夫婦を身近に見たことがなかったし、むしろよいい夫婦というものの存在を否定するような傾向があったような気がする。見合い結婚をして単身赴任の長かった父と、形だけの夫婦関係を保っている母しか、結婚をしている大人を深く知ることがなかったのだから、当然だったかもしれない。

 また、女性としての自分に魅力を感じるということをよくないことであるように、教えられて育ったように思う。それでも、10代半ばを過ぎてからは、自分の好きなようにふるまったし、自分はただの優等生ではなく、女の子としてもかわいいんだと思うことを、自分に禁じていたわけではない。

 

 彼氏は、私の大学院進学などは問題ないようだったけど、留学にはあまり賛成ではないようだった。それでも、はっきりと口に出して反対はしなかった。彼が私を傷つけたことは、今思えば一度もない。そして、バレンタインデーに片道航空券でフランスに向かったということが、二人の間で大騒ぎになることもなかった。

 

 フランスについてから、私の日常は一変した。何もかもが新しく、これまでとは全く違っていた。私はそれが大好きだった。

 留学経験のある人には分かると思うが、ものすごく大変なこともたくさんあるが、最初の発見の日々は、希望と不安に突き動かされて、熱に浮かされたように興奮して過ごした。遊びと勉強のなかで体験する、日々の小さな失敗や成功、日本人やほかの国からの留学生との、強い絆・友情、その波乱の中で起こる、いくつかの恋愛事件。

 日本人留学生との交流でさえ、私に、今までの狭い大学の専門分野の世界にはいなかったタイプの人たちとの新しい付き合いをもたらした。東京を中心に、いろんな地方出身の学問や芸術、文化を学びに来た仲間たち。私は夜遅くまで、彼らと芸術談義をしたり、ペニッシュのクラブで踊りあかしたり、ゲイの友達とプライドパレードに参加したり、モロッコ人の友達のすばらしいテラスのある豪邸でミントティーをごちそうになったり、フランスに養子として迎えられ、育った韓国語を話せない韓国系の若者たちのグループと遊びまわったり、とてもここには書ききれないたくさんの経験をした。

 今まで日本で全く知らなかった世界に解き放たれて、元気よく泳ぎまわっていたのである。

 

 だからそのころの私は、いつか日本へ帰国して、「彼氏」と暮らすのかと思うと、あまりにも味気なく、死にそうにつまらなく思えた。そして、本来あるべき自分に嘘をつくような気持になった。

 専門分野もしかりだった。彼の仕事の話は空虚でつまらなく思える一方、フランスの研究者の出している哲学的な論文を、つたない語学力でむさぼるように読んだ。私が探していたのはこれだ、と思った。ここに、もう答えが書いてある。私が一生かけて探すことになるのだと思っていた答えは、もうすでに、フランスでは一部の人たちに共有され、立派な論文・書籍となって出版されている。

 一年後、私は「彼氏」に、別れを切り出した。私は彼に、何も言わせなかった。私の決意は固かったし、彼のプライドも高かったから、彼も何も言わなかった。一時帰国の際に、私は彼の部屋に置かせてもらっていた自分の持ち物を、フランスあての船便にして、それ以来、一度も会っていない。

 私はわがままだったかもしれないが、彼にとっても、結局はそれでよかっただろうと思う。私のような、わけのわからないはねっかえりよりも、彼にはもっと本当にクールで、賢い常識的な女性がいくらでも見つかっただろうから。