衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

ラインハルトとの16年間 ㉑ルフェーブル夫妻の家

 エクス滞在中は、私たちはヴェロの家に寝泊まりさせてもらい、着いた翌日か何かに、昼間、ルフェーブル夫妻を訪ねた。ヴェロに送ってもらったのではないかと思うが、ヴェロが同席していた記憶はない。

 

 あまり何の変哲もない静かな住宅地の明るい道路に面して、その家は建っていた。家が建っていたというのは語弊がある。家の門が、その道路に面していた。

 私たちはお手伝いの男性に門を開けてもらって招き入れられた。手入れの行き届いた芝生の、広くも狭くもない前庭があって、モダンなシンプルな白い住宅が建っていた。今建ったばかりのようにきれいだったが、それは素材や手入れがよいからなのか、最近移り住んだのか、忘れてしまった。ただ、アルジェリアから引き上げてすぐに住んだにしては、新しいスタイルの家だった。

 

 家の中は、天井が高く、やはり白く、すっきりと片付いていた。なんとなく、大きすぎるノリのきいた服を着ているような、そんな印象だった。私はとても緊張していたのか、あるいは前の晩、慣れないヴェロの家でよく眠れなかったか、あまり細かい記憶がない。

 

 ルフェーブル夫人がいて、お手伝いの女性がいて、確か、ルフェーブル氏のほうは外出中だった。私たちの訪問の間に結局帰ってこなかったか、帰ってきても、何か挨拶をしただけで、さっさと出て行ってしまったような気がする。それともそれは、トマだったか。

 ルフェーブル夫人は、小柄で、金髪をカールさせてきれいにまとめてあり、優しそうではあったが、同時に冷たく、あるいは厳しくも感じた。距離を取っていた、と言うべきかもしれない。なにか、敬意を払わねばならない圧力のようなものを感じさせる態度だった。

 簡単には、仲良くなれないぞ、という感じ。

 

 彼女は、せかせかと広い前室を横切りながら、私たちを案内した。荷物はあそこに、もし手を洗うならあちらにバスルーム、お茶は庭のテラスで飲みましょうね、などと、話しながら。

 お茶の準備をするのに、キッチンに寄って女中さんに声をかけた。私に、どんなお茶が口に合うかと聞き、私は何でも、と答えた。それでも、東洋人にはこれがいいかあれがいいかなどと一人で言って、結局女中さんに任せずに、自分でお茶を入れ始めた。私たちは、どこからテラスに行けばいいかもわからないので、ただマダムのいるキッチンにいて、ラインハルトは彼女に聞かれた質問、フェリスやクロードの様子、クロードの父親の健康などについて、こたえている。

 ルフェーブル夫人は、女中さんに、何かの整理の仕方がよくないことを、てきぱきと言って指示した。感情を交えず、とても事務的に。それが女中への正しい態度のなのかもしれないが、その態度が、私たちへも同じように向けられているようだった。

 

 そのキッチンは圧巻だった。高い天井に至るまで、壁という壁が収納棚で、真っ白い扉が何十もキッチンのファサードを埋めていた。上のほうは手が届かないし、中に何が入っているか見えないから、使いこなすのは難しそうだった。キッチンの料理をする場所よりも、収納する場所のほうが圧倒的に大きかった。

 ルフェーブル夫人は、食器がたくさんあるのだと言った。こんなにたくさんの食器を、いつどんな機会に使うんだろう。普通の人なら、一生に一回、結婚式ででもこんな必要ないと思う。きっと、高価な品で、財産の一部なのだろうと思った。

 

 今思えば、客をサロンに招いたり、どこかに座らせたりせずに、キッチンで手持無沙汰に待たせたのは、私たちが使用人の家族だったからかもしれない。親しい友人なら、もちろん、招かれていきなり、食事の支度中の奥さんを手伝いながら、キッチンに入っていくことはよくあるが、初めて会う人にそれはなんだかおかしなことだ。私は結局、この家のサロンを見ずに帰った。

 何年ぶりかわからないような娘の名づけ子が訪ねてくる機会に、留守をしていていなかったご主人のほうも、なんだかなと思う。こちらはそのためにはるばるエクスまでも来たというのに。

 とはいえ、私はそんなことはそもそもどちらでもよかった。エクスを見てみたかったのだし、未来の夫がそうしたいというなら、そうする価値のあることなんだろうというだけのことだった。ルフェーブル夫妻に恩を施されたのは私ではないし。

 長いこと連絡していない相手というのはお互いに相手を必要としていないのだから、たぶんラインハルトが誰と結婚しようと、彼らにはかなりどうでもよい関係のない話だったのだと思う。それをわざわざ遠方はるばるやってきたのは、それにかこつけて、関係を保持しようとするちょっと人工的な付き合いのにおいがする。そういうことを、ルフェーブル夫妻はあまり好まなかったのかもしれない。

 

 さて、お茶の準備が出て、テラスに移動した。

 それがなんと、テラスから見える風景がものすごかった。車できてわかっていなかったが、そこはエクスの高台にあるらしかった。キッチンからテラスに出ると、そこはいきなり、見晴らしの良い庭になっていた。

 私たちがやってきた道路側は、大きめではあるがごく普通の物件に見えたが、母屋を挟んで反対側は、すとーんと、建物で言えば3階分くらい下に下がっていた。崖の上に立っている家といってもいい。

 だから目の前は大きく開けていて、そこからは、街の小さく見える屋根やねとその向こうの緑、さらに向こうの山が見えた。

  「あれが、セザンヌの描いた山。」と、日の当たった向こうの山に、マダムが目配せする。「あ。」私は遠くに、サント・ヴィクトワール山を見た。あらまあ、こんなこととは。そこで、ああ、本当のお金持ちって、こういうことね、と思った。

 

 いや、セザンヌの山だけではない。石張りのテラスは、それなりにゆったりしたサイズだったが、その向こう、崖になっているところは、母屋の軸に合わせて左右対称に描かれた、フランス式庭園の中にあるカスカードのようなものになっていて、水が流れていた。そして一番下のところに、細長いプールがあった。どれもこれも真っ白で、水は澄んで、カスカードの両側の緑は剪定され、とてもよく維持されている。

 それには、私はかなり驚いた。こんなものを個人邸で持っている人を、私はほかに知らない。

 かなり急なカスカードで、その両脇の白い石段を歩いて降りられないことはないけど、戻ってくるのは骨が折れそうだった。たぶんプールに行く時以外は、ただ見るためのものだった。見るためだけにこんなものを作るなんて、よほどお金に余裕がなくてはできない。

 ついでに言うと、母屋も左右対称で、なんとなく真四角くて、古典主義的な建物だった。

 建築的にそんなに素敵だとは思わなかったけど、それはお金のかかったものであることは確かで、しかも、誰か建築家が、この土地のために設計したものであった。いや、もしかすると、私が行かなかったサロンに行けば、この建築の魅力が理解できたのかもしれない。

 

 私たちは、その不思議な風景を見ながらお茶をいただいた。ルフェーブル夫人は、ラインハルトにも質問したが、とても珍しいことに、私に直接いろいろなことを聞いた。日本で何をしていたのかとか、今はどんな研究をしているのかとか。私が日本の大学で教えていた時期があったことを話すと、日本の大学の仕組みや、フランスではどういう立場にあたるのかなど、少し突っ込んで聞いてくれた。ラインハルトにより、私に直接興味を持ってくれたように感じた。

 私がラインハルトと一緒にいるときに、いつも感じていた疎外感や、人々が私を「あのラインハルトの日本人妻」というレッテルを貼って遠巻きにみているときの自分が存在しないような感覚を、彼女は一切感じさせなかったのだ。もしかすると、ラインハルトの力が、彼女には及ばないからかもしれないが、私は彼女が普段付き合っている人たちと私が、類似していたために親近感を持ってもらえたのではないかと思った。なにかそういう、共通するものに会った時の安心感みたいなものを、あの時のテラスで、ルフェーブル夫人の反応の中に私は感じていた。

 

 だが、それ以来、ルフェーブル夫妻とも、ヴェロとも一度も会ったことがない。私たちの結婚式にも、彼らは来なかったし、ペルチエ家では、少なくとも私のいる前では、あまりルフェーブル夫妻の話をしなくなったように思う。

 

 ルフェーブル夫妻と、フィロメナの関係は、強力な力関係であって、フィロメナにとっては唯一彼女が下の立場をとらなくてはならない相手であった。というか、それ以外の上をとれない関係は、彼女は自分の人生から全部排除したのだと私は思う。

 ルフェーブル夫妻が、暴君だったのではないようにも、この時のお茶の印象で私には思える。しかし、いかんせん、教養にしろ、お金にしろ、ルフェーブル一家とフィロメナの間にはあまりにも圧倒的な差があって、いくらフィロメナでも、その関係をひっくり返すわけにはいかなかったのであろう。

 フィロメナは、人間関係を上下でしか見ないのである。そして自分は常に上にいなくては収まらない人だ。

 そのことについて、たくさんの例を挙げることができるので、これから少しずつ書いていこうと思う。それは、ラインハルトの起源を理解するうえで、かなり重要なことであるように、私には思えるのだ。

ラインハルトとの16年間 ⑳ゴッドマザー、ヴェロニック

 ラインハルトのゴッドマザーが、ルフェーブル家次女のヴェロニックだった。ラインハルト以外の子たちは、ルフェーブル家の人をゴッドマザー、ゴッドファーザーとしていない。今となっては、ラインハルトが唯一のルフェーブル家との公式な関係を持っていると言ってもいい。

 ヴェロと呼ばれていたその女性は、ラインハルトが生まれたとき、14歳だった。フランスのカトリックの家庭では、若いティーンエイジャーに、知り合いの赤ちゃんのゴッドファーザーやゴッドマザーの役割を充てるという習慣がある。そのようにして、ティーンエイジャーに責任を与えるという教育的な目的もあるし、親の世代より少し若い世代に名付け親になってもらうことで、その子供にとっては、親が年を取った後も頼れる相手ができる。実際には、そんな年齢の時に、親に言われて知り合いの赤ちゃんの名付け親になっても、なんとなく居心地の悪い思いをする若者のほうが多いのではないかと思うが。責任を果たしきれない部分も多いと思うし、自分の生活でいっぱいいっぱいの10代20代の時に、小さな子供に関心を寄せるのは、一般的にはあまり簡単なことではないだろう。私だったらきっとできない。

 ヴェロの場合も例にもれず、ラインハルトの面倒をよく見たわけではなかった。そもそも、ヴェロはエクスに住んでいて、ラインハルトが生まれて間もなく、ペルチエ家はアルザス地方に引っ越し、その後ブロワ、サルトルヴィルと転々としたのだから、会うことだってほとんどなかっただろう。

 それでも、礼儀正しく、時々電話で話したり、旅行先からハガキが届いたりという間柄で、誕生日にはプレゼントが送られてくるという具合だった。

 

 私がペルチエ家に出入りするようになって、ラインハルトは、そのころ数年放っておいたゴッドマザーとの関係を掘り起こすことにした。私を連れて、ヴェロに会いに、マルセイユ郊外の彼女の家に泊りがけで行くことになったのである。

 

 私は、どこかに行くのは好きだった。新しい街を知ること、知らない人の生活を知ることは楽しい。少しおっくうなのは、その人たちと食事をしたりお茶を飲んだりする間、話をして付き合わなくてはならないことだ。日本で日本人相手だったら、気詰まりに感じなかったのではないかと思うけど、やはり相変わらず、文化と言葉の壁は大きかった。

 それでも、いつもその高すぎるハードルに向かっても、私は挑戦しようとしていた。それは私にとって、学び成長するチャンスと思っていた。実際そうだったこともあったし、特にこの時は、そうだったんじゃないかと思う。

 

 ヴェロは、上の二人と違って、大学に行かなかった。高卒で働き始めたらしいが、何をしていたのか私は知らない。よい家庭の子が、そのように低学歴であまり幸せそうでないという例を、このくらいの世代で時々見かける気がする。もちろん、自分で選んだ道で満足し幸福なら、学歴なんて関係ないのだけど、たぶんそういう人たちは、親や家庭に反発して学業をやめてしまい、自分の自由意思でそうしたのだと思っているけど、実は逆に、そういう親や家庭があったからこそ、わざわざそうしてしまったわけで、自由意志ではなかったのだろうと思う。だから、押し殺された後悔の念と、親のほうが正しかったのに自分が言うことを聞かなかったという罪悪感のようなものをなんとなく重ね合わせて持っているような気がする。

 ヴェロも、ちょっとそんな感じの人だった。

 彼女は金髪で長身で、どちらかというとやせていた。ベースはきれいな人なんだと思う。私たちが着いた日は、彼女はスリムジーンズにTシャツ、袖なしの紺色のダウンを着て、直毛の金髪を無造作に後ろに一つにくくっていた。化粧っ気もなく、大股で歩き、疲れた様子だった。とてつもなく忙しいときに、自分のゴッドチャイルドがフィアンセを連れてくる。しかたないから喜んで迎え入れるけど、なんとなくバタバタしている、という感じ。

 最寄りの駅に着いた私たちを迎えに来たのは、ヴェロ本人ではなく、彼女の夫だった。名前を何と言ったか忘れてしまったが、建設業の会社をやっている人だ。日本で言う工務店の社長だ。社長と言っても、社員が数人いるだけの小規模な会社で、迎えに来た彼の車は、業務用の、後ろにいろいろ載せられる大型のバンだった。

 埃っぽいような、ガサガサしたものがいろいろ後ろに乗っているような、そういう記憶がある。あまり乗り心地のよくないそのバンの後ろに、私が乗り、助手席にラインハルトが乗って、渋滞した道を30分以上かかって彼らのうちに着いた。その間、運転席のヴェロの夫とラインハルトは世間話をしていて、私はただ聞いていた。

 ヴェロの夫は、渋滞に時々悪態をつきながら、仕事上の問題をなにやらラインハルトに話していた。彼は知的階層に皮肉を言うような、嫉妬と軽蔑を混ぜたような口の利き方をした。工事業者は、その仕事の性格上、現実のこまごました問題を実際に解決する必要がある。論理的に解決すれば解決だと思っている知的階層の人であると彼がとらえている、大学出のラインハルトや遠い国からの留学生の私など、彼の世界には全くそぐわなかった。

 あまりにこやかでもなく、私は気持ちよく迎え入れられたという印象もなかったが、ラインハルトは平気だった。私に、みんな喜んでいると確約した。

 

 私たちがうちに着くと、ヴェロはうちにいた。がらんとした一階の、玄関を入ってそのままそこが居間となっている空間の右端に、吹き抜けを上る階段があり、そこから、シーツや何かの洗濯物を抱えたヴェロがせわしなく降りてきて、私たちを迎えた。

 「今、ギャバンが帰ってきてるの。急に言うもんだから。」という。ギャバンは、彼らの二人の息子のうちの一人で、当時寄宿舎のある高校に入っていた。その子が、帰らないはずの週末に、急に帰ってきたらしかった。

 そういう話は、私にはとても居心地が悪かった。そんな忙しいときに申し訳ないと思わされた。でもラインハルトは相変わらず、みんな親切で喜んでいると言っていた。

 

 その日の食事は、庭に出したテーブルで食べた。安いプラスチック製の折り畳みの大きなテーブルだった。フィロメナの家のような、気取ったアペリティフや前菜という儀式はなく、すでにテーブルについていた家族の友達だったか、近所の人だったか、工務店の人だったかは、もうビールを飲んでいる最中で、ヴェロの夫が、缶詰のたら肝を出してきた。そして、家事を終え切らないで動き回るヴェロに向かって叫ぶ。

 「おーい、ヴェロ、いい加減してこっちにこいよ。ビールでいいだろ?たら肝を開けるぜ。ヴェロも食べるかい?」

 横からラインハルトが、私に、「知ってる?」と聞く。知らないというと、「おいしいよ。パンに載せて食べるんだ」と説明した。テーブルの向こうはしにいるヴェロの夫が顔をあげてこちらを見て、

 「レモン汁と、あらびきコショウをたっぷりかけるといいんだぜ。」とラインハルトに言った。私に直接話しかける勇気はないようだった。そして、その通りにレモンをぎゅっと絞って、コショウを曳いた。ヴェロがやっとテーブルにやってきて、「いやぁよ。私はそれ今食べる権利がないの。ダイエットしてるんだもの。今朝からダイエットメニューで頑張ってるんだから。」と言った。「油はしっかり切ってやるよ。なんだよ、これくらい食べたってどうもならないさ。」それでもヴェロは、最近はすごく痩せにくくなったんだから、と食べなかった。

 ヴェロは30代のフランス人女性にしては細いほうだった。ダイエットをいろいろ試したりする人なんだな、と思った。招待客があるときに、ダイエットを中断しないのも、なんだか不思議に思えた。

 

 その雰囲気は、地に足の着いた庶民的なものに見えるようだった。家の中も、折り畳みのプラスチック製の大きなテーブルみたいに、実用的で何の飾り気もなく、物が少なく、その少ないものが雑多に散らかっていた。おそらく、夫の工務店が建てた家で、簡単にいろんなものが済ませてあった。

 ヴェロはきっと、自分の家族のような大金持ちの生活に反発して、この普通の工事屋さんと結婚したのだと思った。そして、自分も庶民の側の生活をしようとしているのだ。

 

 ヴェロとラインハルトは、いろいろと冗談を言い合ったり、ヴェロにとっては昔の自分のベビーシッターであるフィロメナや、年が比較的近いブランディンやコリーヌの噂話を楽しそうにしていた。

 

 ヴェロをゴッドマザーにしてくれとルフェーブル夫妻に頼んだのは、フィロメナである。そうやって、なんとかよい家庭との絆を強いものにしようという意図があった。それを、全くなんのためらいもなく申し出てしゃあしゃあとしているのが、フィロメナである。そういうことを、人は断らないのも分かっている。

 ついでに言うと、ラインハルトはマイテという、フィロメナが以前ラインハルトが中学生の時ベビーシッターをやっていた女の子のゴッドファーザーである。マイテの両親は銀行家で、しっかりしたお金持ちの家庭である。フィロメナは、上の子セヴリーヌのベビーシッターをしていたのだが、二人目のマイテが生まれた時、すかさずラインハルトをゴッドファーザーにと提案したらしい。その時、フィロメナはラインハルトに、こういう金持ちの大人と親しくなるようにと諭したらしい。

 

 フィロメナの狙い通り、確かにラインハルトは、ルフェーブル家にこんなふうに招かれる(というか押しかけることのできる)権利を持っていたし、マイテの家族とも、ただの元ベビーシッターの息子ではありえないような、時々お互いをうちに呼んで食事をするような「友人」関係を持っていた。

 とはいえ、それらがうわべのものに終始し、結局は実利も、本当の友情も生まなかったことは、現在の状況を見ればわかる。そういううわべを保つということに、多大なエネルギーを費やしているように私には思えたけど、彼らペルチエ家の、特にフィロメナとラインハルトには、それはごく当たり前のことで、彼らはそのエネルギーをそれほど苦心して投入しているようには見えなかった。

 でも、もしよく分かり合えない知り合いを年に一二度招待したりされたりする時間とエネルギーがあれば、本来の私なら、一回小旅行に行くとか、趣味を極めるためのスタージュに行くとかいう方を絶対に好んだはずだった。でも、私はそれに気づかなかった。そしてそれを、フランス文化なのだと思い、それを学ぼうとしたし、また私一人の都合ではなく、夫の生活を尊重しなくてはならないと思った。

 それでも、私はもう少しわがままになり、自分のやりたいこと、自分の人生、自分の時間というものについて、もっとしっかり向き合って考えるべきだった。もし考えてそれを話してみたところで、ラインハルトと一緒にいるのをやめない限り、おそらく何も変わらなかったのだと思うけど、でも考えなかったのは、無責任だったと思う。

 

 ただ、私がそういうことを全く考えなかったのは、催眠術にでもかかっていたかのように感じることがある。

 

ラインハルトとの16年間 ⑲母フィロメナとルフェーブル家

 私は一度だけ、フィロメナの雇い主だったルフェーブル夫妻のうちに行ったことがある。

 ルフェーブル夫妻は、もともとパリの出身だったが、当時フランス領だったアルジェリアで起業していた。ルフェーブル家は、昔からのお金持ちで、パリのブルジョワ階級の家系である。その後、フランスに戻ったルフェーブル家は、パリには戻らず、エクスアンプロヴァンスに住み着いた。エクスは、こんな言い方はおかしいかもしれないが、フランス国内でも特に金持ちに好まれる街だ。

 当時私は、あまりそのあたりの事情を知らなかったと思う。フランスでは、貧富の差や階級差のようなものが、移民と白人フランス人の間の格差もあって、日本より目立つ。今、パリ東郊外に住んで、シングルマザーとして子供たちを学校にやっていると、以前パリの治安のよい地区に住んで、大学や自分と同じような研究者のいる会社へ通っているときには見えなかった、フランスの普通の人たちや下層階級の人たちを間近に見る。間近に見るどころか、自分自身が、お金のない移民の一人なのだと思う。

 当時はそんなこととは思いもしかなったから、ルフェーブル夫妻に会うことは、私にとっては、ラインハルトの上司やラインハルトの親の親戚に会うのと、何ら変わりはないと思っていたが、今思えば、ベビーシッターのスペイン娘の息子ラインハルトの妻となる私と彼らの間には、立場上階級差のようなものがあり、それを私以外の皆が意識していた。

 

 いつもいばっていて、だれにも屈しないようなフィロメナが唯一怖れていたのが、ルフェーブル夫妻とその家族だったと言っていい。そのことを絶対に本人は認めないだろうけど。

 彼らに対しては威張ることはできなかったのだと思う。へりくだった自分を、彼女自身受け入れることがもうできなくなっているのだと思う。

 

 

 事あるごとに、ルフェーブル家の話を我が事のように話すのを好んだフィロメナに、家族は、もうそろそろ、ルフェーブル夫妻もお歳だから、元気なうちに一度会いに行ってはどうだと言うことがあった。そんなことを言い出すのは、ラインハルトか、ブランディンだった。コリーヌやクロードは言わなかった。ラインハルトやブランディンは、フィロメナが本当はルフェーブル夫妻に会いたくないことを知っていて、わざと意地悪をしていたのだと、今になればわかる。

 フィロメナは、それに対して、今は自分の足の具合がよくないからその手術が済んでから、とか、次の夏にはスペイン旅行を入れてしまったから無理だけど、もう来年中にはいくつもりだとか、そんなことを返事していたが、今に至るまで、結局一度も行かないでいる。フィロメナより年上の夫妻は、すでに80を超えたフィロメナよりさらに体力もないだろうし、もしかすると、私がラインハルトと別れた後、私が知らない間に亡くなっているかもしれない。

 それでも、フィロメナはほっとしこそすれ、会わなかったことを後悔するとは思わない。

 

 ルフェーブル家の3きょうだいは、長男トマ、長女ジャンヌ、次女ヴェロニックと言った。フランスの、いわゆるいい家の典型的な、聖書に出てくるいかにも「カト」っぽい名前だ。お兄さんのトマは、テニスとヨットを趣味とする金髪の長身の男性で、細長い顔がルフェーブル氏によく似ていた。彼は大学でマーケティングを学んで、家業を継いだ。ジャンヌは、濃い栗色の髪の背の低いかわいらしい感じの人。大学まで進学して、どこかで働いていた。南仏のどこかの街に結婚して夫と子供たちと暮らしていた。私はこの二人のことはほとんど知らない。

 ただ、トマについては、ラインハルトから時々聞いた。フィロメナは、ラインハルトを、トマ・ルフェーブルのように育てたかったということだった。ただ、ラインハルトをトマのように育てたいなんて、なんだか全くそぐわない感じする。私は今、自分が書こうとした分かりやすいと思った例えにちょっとぎょっとするが、書いておこう。猿に無理やり素晴らしい衣装を着けるような…。

 

 そもそも、ペルチエ家の内装、家具のしつらえ、食事の仕方、服の着方などは、ことごとくルフェーブル家の真似であるらしかった。もちろん、同じ品質の品物ではないけれど、なんとなく裕福な家庭が持っているようなものをまねたものだった。

 フィロメナは、黒い靴は夜会のためのものだから、昼間仕事に履く靴は、茶系でなくてはならないと言った。それが上流階級の身だしなみであり、それを無視して昼間から黒い靴を履いている人は、ただの成金ということだった。フィロメナは、そのような類のことをいつも言った。

 家の中のソファーや、システムキッチン、食卓と椅子なども、クラシカルな雰囲気のあるものばかりだったし、服装も、当時は私にはわからなかったけど、いわゆるヴェルサイエ(ヴェルサイユ人)風のスタイルを踏襲していた。

 だから、よく知らない人、あるいはアラブ移民系の人から見ると、フィロメナは、金持ちの奥さんに見えるらしかった。その実は、ごく普通の中流家庭で、彼女は庶民の出なのだけど、見た目だけはうまくそろえてあった。

 フィロメナの生活は、形がとても重要だった。見た目、と言ったほうがいいかもしれない。子どもたちは、いつもきちんと特別清潔なアイロンのかかった新しい服を着て、かわいらしく、マナーを守り、立派な態度をとらなくてはならない。食事はいつも、同じパターンで、食前酒、前菜、メイン、チーズとサラダ、デザートが用意されていた。特に素晴らしいセンスがあるわけではないけど、一応一通りの盛り付けがされている。食器類もいつもちゃんとそろっていたし、ナプキンやテーブルクロスも、シミ一つなくアイロンがかかっている。

 うちの中はいつもきちんと整理整頓されていて、どの引き出しを開けても、きれいにすべてがたたまれ、並べてある。掃除が行き届き、ほこりの溜まった隅などもない。

 生活全体が、彼女の考える上級なスタイルでコントロールされているが、どことなく不自然な、あるいは薄っぺらな感じが付きまとう。快適ではあるが、温かみや人間らしさのようなものは感じられない。

 

 ラインハルトは、唯一の男の子だったから、フィロメナは憧れていたルフェーブル家の長男のように、将来、テニスを趣味とし、立派なマナーを身につけ、ちゃんとした企業で素晴らしい役職に就くということが求められていたと、言っていた。そのプレッシャーに苦しんだ、というより、それをかわすことに長けていたし、どちらかというと、母親は貧しい国の出で、ルフェーブル家に影響を受けたから、と、どこか突き放したような、母親を馬鹿にしたような言い方をすることが多かった。

 ラインハルトは、トマとは似ても似つかない。背こそ高かったが、20代中盤でおなかが出てきたので、フィロメナは会うたびにラインハルトに痩せろと言った。ラインハルトはテニスを憎み、サッカー観戦が好きだった。テニスや立派な役職よりも、現実には、出っ張ったおなかが争点になった。それを言われると、ラインハルトは明らかに嫌そうだったし、自分が太っていることを認めまいとしていた。体重が2キロ減ったときは、みんなに「2キロ減った」と吹聴して回ったが、3キロ増えたことは決して言わなかった。それは、私の知っている期間いつでもそうだった。発言だけを聞いていると、彼は全部で10キロくらいやせたことになるけど、実際はどちらかというと太っていったのだから、当然、痩せた分をどこかで取り戻して余りあったはずだった。

 

 そんなペルチエ家の見せかけのモデルである、エクスのルフェーブル家を私たちが訪ねたのは、まだ少し寒い春先のことだったと思う。私たちは、あと数か月で結婚する予定になっていて、結婚前に、ラインハルトの婚約者である私を、ペルチエ家の恩人であるルフェーブル家に紹介するためだった。

ラインハルトとの16年間 ⑱母フィロメナ 2

 フィロメナは、アルジェリアで、あるフランス人窓サッシメーカーの社長の家にやとわれた。ルフェーブル社長夫妻には、男の子一人、女の子二人の3人の子供があって、彼女はその子供たちのベビーシッターとして、住み込みで働き始めた。フィロメナが17歳の時である。

 それまで、貧しいアリカンテの漁師村から、内陸の麦畑の畑作業をしに行っていた彼女が、どういういきさつでアルジェリアに行くことになったのか、詳しく聞いたことはない。「でもあの頃は」というような言葉で、皆が理解するような、そんな時代だったらしい。日本人だって、バブルがはじけたころ留学ブームが起きて、若者がなんとなく海外へ出ることがよく見られる現象になった時期があった。私も、そんな時代背景があってフランスに来たのだから、わからなくもない。当時のスペイン人にとって、17歳はほぼ大人であって、より条件のいい場所で働きたいという希望は、家族の中でも、社会的にも、通りやすいものだったのかもしれない。

 

 それと同時に、フィロメナの性格上、ほかの人は頼りにならない、私が家族を助け、よりよい生活をさせる、というほかの家族のメンバー、特に母親への侮蔑的な意思の表現があったのではないかと思う。それを、母親は、止めたかったどうかは知らないけど、止めることはきっとできなかったろうと思う。そして、なにやらよくわからない野心もあったのだと思う。学業では満たされなかった彼女の承認欲求は、アイロンがけや料理の腕自慢にとどまらず、もっと力を持つものからの承認を得るということへ向かって行ったように思う。

 そのことをうまく表現するのは難しいが、フィロメナは、やはり力、権力が好きだった。お金は力であり、お金持ちは力のあるものである。だから、フィノメナは、ルフェーブル一家の上流階級の人々の生活を、まるで自分自身がその正式なるメンバーであるかのように、自慢気に語ることが多かった。

 彼女は決して、「私はそこで、ただのベビーシッターだったんですけどね」とは言わなかった。

 

 確かに彼女は、大変なエネルギーの持ち主であり、自分から思いついたサービスを自主的に行う傾向がある。子供の面倒だけ見ればよいところを、余った布で子供たちに音楽学校の教本を入れる袋を縫ったり、ハンカチに刺繍をしてやったり、靴のシミを取ってピカピカにしたり、ということは想像に難くない。そうしたことを見て、ルフェーブルさんたちは、なんて素敵な気の利くベビーシッターだろうと喜んだに違いない。

 フィロメナが本当に言ったセリフで、私が仰天したのは、「ルフェーブル夫妻に、私が何者かであることを発見された」というセリフだ。「何者かって?」と心の中でその意味を測りかねてつぶやいたけど、声には出さなかった。ちょっと変わった、元気のいい、気の利くベビーシッターであることは、なにやら重要人物「何者か」などではないと思うのに、フィロメナは、現実離れした自己像を持っていた。

 

 彼女のその「気の利く」ところは、度を越えていて、相手の望むところ以上に、自己満足の部分を大いに兼ね備えており、時には本当に自己満足でしかないこともよくあった。そのため、それはただの大変なおせっかいに終わることも多々ある。そして、ただの気のいいおせっかいというより、それをされた側が怒り出してしまうような介入、さらには支配欲の発露となることも多い。

 その例は枚挙にいとまないが、一つ二つだけ話しておくと、例えばスペインの家族が、何かでもめ事があるたび、つまり甥っ子の一人がゲイであることを彼の父親に話したときや、その彼の同性結婚、または別の甥っ子が購入していた別荘を売りに出すか否かともめていた時、また、姪っ子の一人の次女が障害を持って生まれ、大変な育児のさなかに彼女の夫の浮気が発覚した時、などなど、フランスからわざわざ口を出しにアリカンテに行って物事を仕切ろうとして、皆から独裁者と呼ばれていた時期があった。

 または、ブランディンの誕生日に、フィロメナの持っているのと同じ旧式の柱時計をプレゼントし、それが場所を取り、見るからに全くブランディンの趣味に合わず、ブランディンが要らないと言ってけんかになったり、私にも、しょっちゅう、私が欲しくないものをありがたがらせて受け取らせようとした。彼女の手編みのセーターやマフラー、趣味の合わない赤いガラスの花瓶、古い買い物キャディ、蓋つきの大きな台所用のごみ箱、子供用のイケアのカーペットなどなど。3度目にカーペットを持ってきたときには、私はついに断った。すると彼女は、「子供たちが寒い思いをしている、あなたのうちの床は冷たいから、カーペットを敷かないから風邪をひいている」と、私に罪悪感を持たせるような発言をしたけれど、「でも要りません」ときっぱり言ったら、何事もなかったかのように、ぷいと持ち帰った。「ああ、要らなかったのね、ごめんなさいね。」とか「あったほうがいいと思うわよ。必要になったら言いなさい。」とか、そういう言葉も一つもなく、ただそそくさとカーペットを車に戻して帰っていった。拒否されたことを、なかったこととするかのように。

 

 フィロメナの自己像といえば、また、彼女は自分をとても美しいと思っている。彼女の昔の写真を見ると、確かに醜くはない。美しいと言ってもいいかもしれない。その世代の人にしては背は高いほうで、痩せてはいないけど、太ってもいない。まっすぐなきれいな脚をしている。大きな目とくっきりした眉、大きな口。少し浅黒く、骨太で、大雑把なあまり垢抜けない感じだけど、元気ではきはきとしていそうな印象を与える。

 でもフィロメナは、美人のブランディンが、自分に生き写しだと信じている。そして、ブランディンの上の娘、今は服飾の広告のモデルなどもやっているマエルが、自分からブランディンへ受け継がれた美の、後継者だと考えている。

 ラインハルトは、フィロメナのその考えを疑いもなく受け入れていたので、私が、ブランディンは父親のクロードに似ていると言った時、とても驚いていた。でもきっとそんなことは忘れているだろう。ラインハルトは何もかも忘れてごっちゃにしてしまうから。

 コリーヌのほうが、見た目は少しフィロメナに似ている。中身は似ていないけど。

 実際のフィロメナ、今や、私が出会った頃のフィロメナは、太った、二重顎のベリーショートのおばさんで、ブルドックのようにほっぺたが垂れている。細く薄くなってしまった眉毛が、不自然な形に弓型に目を囲んでいる。乏しいまつ毛に囲まれた眼は、びっくりしたように見開かれていることが多く、感情をあまり表現しない。微笑むときにはいつも唐突で、取ってつけた笑いの形に口を動かしているように見える。でも、時々、子供を相手にしているときなど、自然な笑いが目尻に浮かぶことがあるようにも見える。

 でも私には、たいてい、つっぱったような人間関係のマスクをつけたような表情であることが多い。だからと言って、そのマスクの下に、何かが隠れているわけでもないように思える。彼女という人は、それだけの人なのだと思う。

 

 私のこの書き方は、ずいぶん罪深い書き方のようだ。でもできるだけ、自分の思いに忠実に書こうとすると、こうなってしまう。

 それだけの人、と書いたけど、フィロメナについては、書くべきことはまだまだたくさんある。しばらくこのフィロメナシリーズが続くことになるかもしれない。

ラインハルトとの16年間 ⑰母フィロメナ 1

 ラインハルトの抱えている問題を語るには、母フィロメナについて知ることが最も重要なことであるように私には思える。私がフィロメナに初めて会ったのは、ラインハルトからブランディンの妊娠中の写真を見せてもらって、間もなくのことである。

 

 ラインハルトが、家族に紹介するからと、家族の集まるある日曜日、彼の両親の家に招いてくれたのである。前にも書いたとおり、彼の両親の家は、実家というより、その時彼の両親が住んでいた家である。

 ラインハルトの家族は、父親の仕事の関係で、フランス各地を転々としていた。配置換えを余儀なくされる仕事だったのではなく、自主的な転勤だったようだ。そのころは、アシェールというパリ西郊外の町とも呼べないような一つの行政区の新興住宅地に一軒家を持っていた。駅を降りると、駅前にパン屋やタバコ屋くらいはあったような気もするが、ともかくがらんとして、大きな駐車場があり、パリへ通うサラリーマンたちのベッドタウンであった。真新しいアスファルトの道が、駐車場から不自然にぐにゃっと右に曲がっていて、その街路樹も何もない道を少し行くと、唐突に住宅地が始まる。一社の開発業者が作った、何とかニュータウン的な、みなお揃いの屋根、壁、小さな庭の柵をしていて、特に魅力的でもなければ、特にみっともなくもない住宅地であった。

 おそらく、その住宅地が竣工したときに彼らも家を買ったのだと思うが、出来て数年というところだった。そのころすでにラインハルトは大学生になっていて、お姉さんたちはそれぞれ独立して働いていた。ラインハルトだけが、自宅にまだ残っていたけど、どうしてその時寝室が4つくらいあるうちを購入したのか、よくわからない。

 

 フィロメナは、スペイン人である。そういうと、必ず彼女は、「私はフランス人です。スペイン出身ですが。」とぴしゃりと言った。確かに、フィロメナは国籍で言えばフランス人だ。結婚を機に、帰化したのである。彼女は両親ともスペイン人で、スペインに生まれ育った。アリカンテの出である。14歳の時に父親を亡くし、働き始めた。17歳で、当時フランス領だったアルジェリアに出稼ぎに出かけ、そこでクロードに出会ったのである。

 国籍はフランス人だが、彼女のフランス語はひどい訛りがある。発音に訛りがあるだけでなく、いくつかの関係代名詞などの単語は、毎日毎時間会話に出てくるような単語でも、スペイン語のままだし、スペイン人の彼女に発音しにくい、Sで始まる単語は、みなスペイン風に「エス」と発音した。フランス語のわからない単語は、スペイン語をフランス語発音するような継ぎ接ぎのフランス語で代用してあったりするのに、須賀敦子さんが何かのエッセイでしていた自国語も忘れてしまった老人の話に似て、スペイン人に言わせれば、彼女のスペイン語もとても分かりにくいらしい。若くして自国を離れ、しかもほとんど勉強もできなかった時代の中卒の彼女は、スペイン語でも読み書きもおぼつかない。

 最初のうち、彼女のフランス語は私には非常にわかりずらく、その謎が解けたとき、私は楽しくなって、うっかりラインハルトにこんなことを言った。それは、私がスペインへ行ったりしてスペイン語に親しんだ後のことだから、3~4年はのちのことだと思う。「ねえ、フィリスって、CE QUEのことを、いつも必ずLO QUEって言うわよね?ずっと聞き取りずらいと思っていたけど、言葉自体が違ってたんだわ。ほかにも、Sで始まる言葉が、必ずエスと発音して始めるのよ。」と言った。私にとっては、「それが分かれば、フィロメナの言うことがぐっとわかりやすくなる」という利点のある、ちょっとした学術的でもある発見だった。ある言語が移民たちによってどのように変化するか、という面白い実例であり、クレオールのようだと思った。

 しかし、それはラインハルトにとっては、全く興味深い面白いことではなかった。自分の母親を馬鹿にされたと思ったのではないと思う。ただ興味がなかった。「そうだっけ?」とこちらを見もせずに言った。それから、私は一人で考えて、やはり、子どもの時から絶対的な存在である母の使う言葉に、この家族の人たちは決して疑問を投げかけないのだと思った。彼らにとって、母は、絶対に間違っていないのだ。私にそれを指摘された後でも、ラインハルトの脳内では、母フィノメナの「LO QUE」は「CE QUE」に聞こえ、「エスペシャル」は「スペシャル」に気づかぬまま変換され、正しく聞こえているのだ。それほど、彼女の力は強かった。

 

 フィロメナという名前の意味の一つに、「力を愛する」というのがある。まさに彼女は力を愛した。だが、フィロメナという名を、実はみんなあまり使わなかった。みんな、フィリスと呼んだ。フィリスというのは、全く別の、フランスにもあるファーストネームだ。フィロメナは、子どものころ、スペインでよく行われるように、あだ名で呼ばれていて、それは、フィリーナというものだった。フィリーナという呼び名自体、スペインでも他には聞いたことがないが、おそらくあまり一般的なニックネームでもないと思う。

 17歳で、フィロメナがフランス領アルジェリアに行ったとき、彼女は、ある大金持ちの家のベビーシッターとして雇われた。それ以前、父親の死後、家族を助けるために、彼女はスペインの田舎で麦畑での畑仕事をしていた。彼女の口から出る彼女の母親ホセファについての話を聞くと、彼女は生前の母親をあまり好いていなかったように思われる。その話題自体非常に少なく、フィロメナは、「12歳の時から、お母さんより私のほうがアイロンをかけるのがうまかったから、家族のみんなが私にアイロンをかけてくれと頼んだ。」と何度も言ったり、料理がうまくなかった、スペインの料理はみんなそうだが、脂っこくて、と言ったりした。そのほか、具体的な話は忘れてしまったが、地味で、現実的で、暗い、不器用な人間が想像されるようなことを、彼女は時々口にした。そこには、言葉の裏に流れる、皮肉を言っているが本当は愛している、というような温かみはなく、ただ、どうでもいい人、いてもいなくてもいい人、というような印象を聞く者に与えた。一方、私は、何かを抑えつけているようにも感じていた。自分の親なんだから、ああ入っても本当は、という私の深読みかもしれないが、もし、その何かが何かしらの感情であるなら、彼女の母親は、本当の本当は彼女にとっても「どうでもいい人」ではなかったんだろうと思ったりする。

 その母親に対する態度と正反対に、父親のことは褒めちぎった。とても美しい男性で、いつも陽気で楽しく、人々から人気があった、ということだった。カリスマ性があったとも言っていた。彼女の話を聞くと、何か素晴らしい王子様のように聞こえたが、実際は、彼はアリカンテの漁港近くの、漁師が主に住んでいた貧しい地区に小さな漁家に借家をして家族を住まわせ、一人で街中で理容院を開いていた貧しい人々の一人だった。

 その貧しさを、フィロメナはいつも、フランコ独裁政権のせいにした。実際そうだったには違いない。

 ともかく、その最愛の父が早く死に、彼女は無能な母の代わりに、家族を支えることにした、ということだった。

 

 最初にフィロメナに会った時の印象を、どう表現したらいいだろう。私は、息子の彼女として初めてフランス人家庭に呼ばれ、緊張していた。特に同性の親は、こちらのことをジャッジしてくるように思うから、少し腰が引けるような思いだった。彼のうちに行くことが決まった時、ラインハルトは私に、一人一人のことを、考えながら、「誰々は…やさしい人だよ。」と言った。「やさしい」のニュアンスは、フランス語と日本語では少し違っている。日本人の言う「やさしい」は、フランス語でなら、DOUXかもしれない。フランス人のGENTILは、もう少し元気がいい。でも、私は、その言葉から、穏やかで静かで、こちらを脅かさない、そういう日本式のやさしさを言っていると思ったのだが、彼のためらうような言い方から、厳しいところもある人なのではないかと感じた。

 彼らのうちに着いて、ドアを開けたら、いきなりフィロメナが私にとびかかってきた。フィロメナは私より少し背が高いのだけど、なぜかあの時の印象では、私より小さい、小太りのブルドッグのようなおばさんが、私に噛みつくようにとびかかってきたのだ。日本語で言うような優しさのかけらもなく、無表情で、私の頬に自分の頬を機械的に、でも強く押し当てて歓迎の意を表するビズをした。

 あ、こんな感じの人か、とどう答えていいかわからなかった。しているのビズだけど、私は怒られているような気分がした。

 

ラインハルトとの16年間 ⑯ペルチエ家の長女

 私がラインハルトと付き合い始めた年、ラインハルトの上のお姉さんブランディンは妊娠していた。ブランディンは、ラインハルトより8つ年上だ。

 ラインハルトのペルチエ家は、お父さんクロード、お母さんフィノメナ、上のお姉さんブランディン、下のお姉さんコリーヌの5人家族で、ラインハルトは末っ子で一人息子である。

 8つ年上のブランディンの次が、6つ年上のコリーヌで、私はコリーヌの一つ年下だ。ラインハルトから見ると、私はお姉さんたちと同世代に近い。

 女の子二人ですでに満足して暮らしているときに、計画していなかった3人目を授かって、それがラインハルトである。ラインハルトの家族については、また詳しく書くことになると思う。

 

 ブランディンは当時、ティエリという同じ歳の男性とパリの小さな一軒家に暮らしていた。ブランディンの最初の彼氏であり、そのまま同棲し、結婚という形はとらずに二人の娘を儲け、二人目の子が5歳の時に別れた。ブランディンは今もそのまま一人身である。

 この年ブランディンのおなかにいたのは、一人目のマエルだった。

 

 その年のクリスマスの時期、私は日本には帰らなかった。でも、パリで過ごすクリスマスや年始も楽しく、私は、フランスに家族がいないことをさみしいと思うことはなかった。フランス人はみな、クリスマス時期は家族とともに過ごすので、ラインハルトから見ると、私やマリカちゃんが、家族のいないフランスでクリスマスを過ごすことに、違和感を感じるようだった。

 ラインハルトは私に、今回はまだりんを紹介しないが、そのうちきっと連れて行くといい、自分だけ家族のクリスマスへ行った。

 彼の実家は、パリ西郊外のアシェールの一軒家だったが、それは私の実家のように、お祖父さんの世代に大工が建て直した先祖代々その土地にするんでいるような家ではなく、ラインハルトの両親が、上のお姉さんたちが巣立った後に購入した新築の建売住宅だった。区画整理して同じような家が計画されて建ち並んでいる小規模な新興住宅地で、駅から近かったが、町には郊外電車の駅とスーパーしかないような場所だった。

 

 そのクリスマスのお祝いを実家で過ごした後、ラインハルトは、お姉さんのブランディンの写真を見せてくれた。当時まだフィルムで撮って焼かなくてはならなかった。ラインハルトは、大きめに焼いた自分が撮ったブランディンの写真を見せた。それは、ブランディンの腰から上全体を斜め横から撮った写真で、ブランディンは形のいいベリーショートの頭をしゃんと上げて、微笑んであちらを見ている。たぶん、ラインハルトが、横を向けと言って取った不自然な体勢だからだと思うけど、当時は、なんだか私に見せるために、標本みたいに撮った写真のように見えた。大きく印刷する価値のないような。ラインハルトが横を向けと言ったのは、妊娠したおなかのカーブを撮影するためである。

 ブランディンは、私がラインハルトから想像したような女性では全くなかった。ラインハルトは、「姉さんはいつだってスリムだったんだけど、妊娠すればこんなになるんだ。」と言った。妊娠して変わるのは、おなかが膨れることだけだという認識は、日本人のものであるが、フランス人女性は妊娠してものすごく太る人も多い。ブランディンが、それ以前どのような体形をしていたのか分からないが、その写真のブランディンは、決して太っていなかったし、何ならラインハルトよりは締まって見えた。でも、そのラインハルトの言い方は、ちょっとおかしかった。「こんなざまだ」と喜んでいるかのようでもあった。その割には、全然そんなざまではないのが、なんだかずれていておかしかった。子供を授かるということを、あまり真剣にはとらえていないように聞こえるのが妙だった。

 ラインハルトの、姉の妊娠という出来事への反応は、細くてかっこよくて威張っていたお姉さんが太った、やーいやーい!とでもいうような、子供っぽいくだらなさを含んでいた。うわべでは人並みに喜んでいるように見せていたが、ティエリへの嫉妬も隠さなかった。私に、「あんな奴の…」というようなことも言った。自分と同性の義兄弟を嫌う人は多いが、その言い方に私は、何かプリミティブな汚らしさのようなものを感じた。

 私は、そういうもろもろの自分の印象を自分に対して隠した。そういう、他人の言動に隠れる無意識のメッセージを、私は読み取るのが得意だったし、面白いとさえ思っていた。でも、ことラインハルトに関しては、私はその薄っぺらいプラスチックの商品パッケージのような、やけにつるつるして、そして分かりやすいようにはっきりした色で印刷された大きな字の商品名や売り文句のような「外面」を、剝がしにかかることをしなかった。そのさりげなく押しの強い広告ような、耳障りのよい名前、言葉、よく目を引き皆から認知されるパッケージは、今思えば、簡単にペリッと剥がすことができるようでありながら、私はそれに手を出すということをしなかった。

 おそらく、それをしてしまうと、自分も困ってしまうからだったに違いない。

 

 さて、ブランディンは、美人であか抜けていた。その形のよい頭と、小さな上品な鼻と口、細いあご、バランスのよい目にシンプルなアイラインだけで上手に効果を出していた。妊婦でもおしゃれなパリジェンヌたち同様、服装もきれいだった。こんなきれいで、まともなセンスのありそうな人がラインハルトのお姉さんとは、信じられないくらいだった。ブランディンはいかにもパリジェンヌらしく素敵に見えた。

 

 ブランディンは、パリ郊外の香水のメーカーで働いていた。かなりいいお給料をもらっているという話だったが、彼女の職場での地位や仕事の内容については、誰も知らなかった。みんな、ブランディンは公私を分けるし、友達も混ぜないとよく言った。そう言われても、ブランディンは口を閉じて「うん」と言うだけで、否定も肯定もしなかったし、弁解もしかなかった。そして落ち着き払った(ように見える)目で、そう言った人をちらりと見て、たいてい彼女がそうしているように、伏し目になって、手元のカップやデザートの皿を見た。もちろん、このころは、私はそんなことは知らなかったが。

 

 ブランディンは、二人の娘のうち、母フィノメナのお気に入りである。たぶん、美しいからだと思う。フィノメナについて詳しく書かないと、このことは伝わりにくかもしれないが、フィノメナにとっては、ブランディンは自分の分身である。フィノメナは、自分もブランディンのように美しく、あか抜けていると考えているようだが、実際は、フィノメナに一番似ているのは、ラインハルトだと思う。

 

 とにかく、私が最初に見たラインハルト以外のペルチエ家のメンバーは、この写真のブランディンだった。彼女の印象は、今日にいたるまでほとんど変わらない。私たちは、会えば話をするけれど、特に深い話をしたことはない。彼女は静かで、あまり笑わず、自然に気取っていて、パリ言葉を話し、クールで冷たく、表面的だ。厳しく、自分の意見をはっきり言う。それでも私は、時々この人は、外国から来たこの違いすぎる相手をどう扱ったら自分がそれらしく見えるのかと、私のことを持て余しているような、恐れているような、そんな印象も持っている。

 

 会えば別に何事もなかったかのように私とも話すが、離婚後、彼女はそっとSNSの私の友達の輪から抜けた。

 

 

 

ラインハルトとの16年間 ⑮付き合い始めのころのことと、ある晩の教会からの帰り道

 私たちは8月に付き合い始めたが、私はマリカちゃんと暮らし続け、ラインハルトは13区の小さなストゥディオとパリ東郊外の実家を行ったり来たりして暮らしていた。まだそのころは、私は彼の実家に行ったことはなく、どんな付き合いをしていたか、不思議なほどまったく記憶にない。

 私にとって、ラインハルトとの関係は、一部分を除いて、かなり表面的だと感じていたことは覚えている。というより、彼には掘り下げるべき深い悩みはないように見えた。その一部分とは、私の敬愛していたDL氏についてや、カトリックの神学についての話題であった。その二つは、他の誰とも共有できない、私の人生の根幹にかかわる大事なものであったため、ラインハルトは、その点においてだけでも非常に貴重な存在であり、新しい自分の人生の最重要人物として、十分に受け入れる価値があると思われた。特に、DL氏の理論や、カトリック神学は、私の自分自身の家族とは共有できないものだったので、それを私は自分の成長の延長線上にある、これから続いていく長い道のりのように感じていた。

 自分の家族が、自分という人間の基礎をなしていたとすると、私が一人で歩き始めたときに、その拡張・成長として善きものと考え学んでいたものの大きな一部分が、DL氏の理論であり、キリスト教神学であった。それは私の第二の哲学とでも呼ぶべきものだった。第一の哲学である実家のモラルや、基本的なものの考え方は、私にはあまりにも当然で空気のようなものであり、当時の若い私には、存在することにすら気づかない、意識されないものであったため、その価値は隅に追いやられていたかもしれない。

 そこを共有できることも、結婚相手を選ぶ重要な点であるに違いないのに、私は、拡張部分で共感できるのだから、基礎部分も同じであると勝手に思い込んでいたし、基礎部分は当たり前すぎて、重要視していなかった。

 それほど大事だと言いながら、その第二の哲学の話をするとき、具体的にラインハルトが何を言っていたのか、私は覚えていない。DL氏が素晴らしいということを心を込めて共感すれば(あるいはそう見えるようにうなづいたり、「まったくその通りだね」というような合いの手を入れれば)、私は私たちが深く分かりあっていると思い込んだのかもしれないし、また、ラインハルトが子供のころから慣れ親しんできたカトリック教会の説教や友人の神父の文言のそれらしいフレーズを諳んじれば、私は簡単に感動・感心していたのかもしれない。

 

 時系列的に言うと、これはもっとずっと後のことなのだが、私が自分が騙されているのかもしれないことに、おぼろげながら気づきかけたエピソードをここに書いておく。

 それは、私がラインハルトと付き合って3~4年目にもなるかと思う。そのころには、ラインハルトからカトリック的な名言を聞かなくなって来ていた。

 ある晩、私の教会での勉強会(カトリックでない大人向けのカトリック教育)の帰り、彼が発した数語の一フレーズに私がひどく感動したことがあった。残念ながら、そのフレーズ自体は忘れてしまった。

 それは、秋の宵も遅い時間で、空には星が出始めていた。そのころ、私が始めた教会での勉強会に、ラインハルトはいつも付き添っていた。付き添う必要などなかったし、付き添われている人も他にはいなかったように思うが、私はそれに何の疑問も感じず、ラインハルトと足しげく通っていた。ラインハルトは、何事にも私を自立させないように心掛けていたと今となっては確信しているから、この時もそのためだったに違いないが、ラインハルトは、すでに信仰篤い自分もぜひ参加したいと言い、教会の人たちはとても喜んで、「ぜひ参加して、力を貸してくれ」というようなことを言っていた。シスターやボランティアの人たちと、非カトリックの生徒の議論の間に、「みんなにもわかりやすいように」と口をはさんだり、終わった後に椅子を片づけたりするのを手伝ったりする彼に、教会関係者はいつも感謝していた。私は、そのような夫を持っていることを、ばかみたいに喜んでいた。

 その日の勉強会の帰り、教会の裏の古いでこぼこした石畳の上を歩きながら、左右の古ぼけた住宅の狭い庭に生えた木の梢の間を仰ぎ見て、私が、星がきれいだとかなんとかそんなことを言い、さっき学んだイエスキリストの教えについて、考えていた。そこへ、ラインハルトがきれいな一句を言った。星と神をたたえるような一句だった。私は、やっぱりこの人は、私の思っている通りの素晴らしい人だ、と思った。こんな素晴らしいことを言えるなんて。でも、そのフレーズは少し難しく、いろんな意味にとれるようなものだった。私は感激して、「あなたって、本当に素晴らしいことを言うのね。」と言って、深堀して質問しようとした。するとラインハルトは、喜ぶどころか、むすっとした。それが私には意味が分からなかった。ラインハルトは、「意味なんて知らないよ。僕は、○○ってカトリック詩人が言ったことを繰り返しただけさ。なんで自分がそんなことを言ったかもわからない。」と不機嫌に言った。私は、彼が自己卑下していると思い、「そんなことないでしょう?今の状況にぴったりのことを、引用してきたんじゃない。素晴らしいのに。ねえ、その前後はなんていうの?何を言っている詩なの?」と聞いた。本当に知りたかった。でも、彼は相変わらずつまらなそうにムスッとして歩を進めながら、「知らない。意味なんて分かるかよ。」というようなことを言った。それは私にはものすごく奇妙で、理解しがたい態度だった。

 今そのことを振り返ってみると、そのころには、ラインハルトは私のお守りをするのに、少し飽きていたのだと思う。スーパー彼氏の役をするのも嫌になっていたのだろう。だから、そのころには、彼のそういう発言も減っていたのだ。すでに結婚して籍も入っていたから、あまり努力する必要を感じていなかったのかもしれない。しかも、夜遅くまで集中して2時間も議論したり、祈ったり、話を聞いたりした後で、疲れていたのだと思う。彼の脳は、いつもすぐに疲れてしまうのだから。私のほうは知的に興奮し、楽しくて仕方なかったが、10分も座って話を聞いているとあくびをしまくり、イライラと別のことを考え始めるラインハルトが、あのころ、3年間も続いた夜のセッションを、一つも欠かさず私に付き添っていたのだから、どんなにか退屈で、どんなにかムカついていたか、想像できる。そういえば、セッションの後もさっきの続きを話したがる私を、ラインハルトはうるさそうにしていたことを、なんとなく覚えている。もっといろいろ話せるといいのに、私のフランス語が分かりにくいかしら?私が参加したがっているこのセッションは夜遅すぎるからかしら?と、私は自分が責めを負うことばかりいつも考えた。私は彼の口先の、「僕にとっても面白い」「教会の役に立てるなら」「君の理解を助けるため」というようなことを、そのまま無邪気に信じていた。だから、彼が本当は死ぬほど退屈していたことが分からなかったし、そうまでして私についてくる理由も、想像だにできなかった。

 

 久しぶりにそういう発言が聞けて私は、やっぱり間違ってなかったと思って喜んだのだけど、でも彼は、その詩人のことも知らないのか、と私を侮蔑したい気持ちも起きたし、それでもそうしてはいけないことがわかっていたから、そんな私の相手をするのは、超面倒くさかったに違いない。その時の態度は、「めんどくせー」という態度だと考えると、本当に腑に落ちるのだ。そうしてはいけないというのは、倫理的に、という意味ではなく、私に自分のマスクが剥がれてしまったら、まずいからである。

 

 ただそんなことが「騙している」ということになるだろうか?誰だって、恋愛の最初には、相手に近づくために相手の趣味を一生懸命勉強したり、知ったかぶったりするではないか。と、私は自分の頭の隅っこで思い、自分の、なんか変だなという直感のささやきを無視した。