衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

ラインハルトとの16年間 ⑰母フィロメナ 1

 ラインハルトの抱えている問題を語るには、母フィロメナについて知ることが最も重要なことであるように私には思える。私がフィロメナに初めて会ったのは、ラインハルトからブランディンの妊娠中の写真を見せてもらって、間もなくのことである。

 

 ラインハルトが、家族に紹介するからと、家族の集まるある日曜日、彼の両親の家に招いてくれたのである。前にも書いたとおり、彼の両親の家は、実家というより、その時彼の両親が住んでいた家である。

 ラインハルトの家族は、父親の仕事の関係で、フランス各地を転々としていた。配置換えを余儀なくされる仕事だったのではなく、自主的な転勤だったようだ。そのころは、アシェールというパリ西郊外の町とも呼べないような一つの行政区の新興住宅地に一軒家を持っていた。駅を降りると、駅前にパン屋やタバコ屋くらいはあったような気もするが、ともかくがらんとして、大きな駐車場があり、パリへ通うサラリーマンたちのベッドタウンであった。真新しいアスファルトの道が、駐車場から不自然にぐにゃっと右に曲がっていて、その街路樹も何もない道を少し行くと、唐突に住宅地が始まる。一社の開発業者が作った、何とかニュータウン的な、みなお揃いの屋根、壁、小さな庭の柵をしていて、特に魅力的でもなければ、特にみっともなくもない住宅地であった。

 おそらく、その住宅地が竣工したときに彼らも家を買ったのだと思うが、出来て数年というところだった。そのころすでにラインハルトは大学生になっていて、お姉さんたちはそれぞれ独立して働いていた。ラインハルトだけが、自宅にまだ残っていたけど、どうしてその時寝室が4つくらいあるうちを購入したのか、よくわからない。

 

 フィロメナは、スペイン人である。そういうと、必ず彼女は、「私はフランス人です。スペイン出身ですが。」とぴしゃりと言った。確かに、フィロメナは国籍で言えばフランス人だ。結婚を機に、帰化したのである。彼女は両親ともスペイン人で、スペインに生まれ育った。アリカンテの出である。14歳の時に父親を亡くし、働き始めた。17歳で、当時フランス領だったアルジェリアに出稼ぎに出かけ、そこでクロードに出会ったのである。

 国籍はフランス人だが、彼女のフランス語はひどい訛りがある。発音に訛りがあるだけでなく、いくつかの関係代名詞などの単語は、毎日毎時間会話に出てくるような単語でも、スペイン語のままだし、スペイン人の彼女に発音しにくい、Sで始まる単語は、みなスペイン風に「エス」と発音した。フランス語のわからない単語は、スペイン語をフランス語発音するような継ぎ接ぎのフランス語で代用してあったりするのに、須賀敦子さんが何かのエッセイでしていた自国語も忘れてしまった老人の話に似て、スペイン人に言わせれば、彼女のスペイン語もとても分かりにくいらしい。若くして自国を離れ、しかもほとんど勉強もできなかった時代の中卒の彼女は、スペイン語でも読み書きもおぼつかない。

 最初のうち、彼女のフランス語は私には非常にわかりずらく、その謎が解けたとき、私は楽しくなって、うっかりラインハルトにこんなことを言った。それは、私がスペインへ行ったりしてスペイン語に親しんだ後のことだから、3~4年はのちのことだと思う。「ねえ、フィリスって、CE QUEのことを、いつも必ずLO QUEって言うわよね?ずっと聞き取りずらいと思っていたけど、言葉自体が違ってたんだわ。ほかにも、Sで始まる言葉が、必ずエスと発音して始めるのよ。」と言った。私にとっては、「それが分かれば、フィロメナの言うことがぐっとわかりやすくなる」という利点のある、ちょっとした学術的でもある発見だった。ある言語が移民たちによってどのように変化するか、という面白い実例であり、クレオールのようだと思った。

 しかし、それはラインハルトにとっては、全く興味深い面白いことではなかった。自分の母親を馬鹿にされたと思ったのではないと思う。ただ興味がなかった。「そうだっけ?」とこちらを見もせずに言った。それから、私は一人で考えて、やはり、子どもの時から絶対的な存在である母の使う言葉に、この家族の人たちは決して疑問を投げかけないのだと思った。彼らにとって、母は、絶対に間違っていないのだ。私にそれを指摘された後でも、ラインハルトの脳内では、母フィノメナの「LO QUE」は「CE QUE」に聞こえ、「エスペシャル」は「スペシャル」に気づかぬまま変換され、正しく聞こえているのだ。それほど、彼女の力は強かった。

 

 フィロメナという名前の意味の一つに、「力を愛する」というのがある。まさに彼女は力を愛した。だが、フィロメナという名を、実はみんなあまり使わなかった。みんな、フィリスと呼んだ。フィリスというのは、全く別の、フランスにもあるファーストネームだ。フィロメナは、子どものころ、スペインでよく行われるように、あだ名で呼ばれていて、それは、フィリーナというものだった。フィリーナという呼び名自体、スペインでも他には聞いたことがないが、おそらくあまり一般的なニックネームでもないと思う。

 17歳で、フィロメナがフランス領アルジェリアに行ったとき、彼女は、ある大金持ちの家のベビーシッターとして雇われた。それ以前、父親の死後、家族を助けるために、彼女はスペインの田舎で麦畑での畑仕事をしていた。彼女の口から出る彼女の母親ホセファについての話を聞くと、彼女は生前の母親をあまり好いていなかったように思われる。その話題自体非常に少なく、フィロメナは、「12歳の時から、お母さんより私のほうがアイロンをかけるのがうまかったから、家族のみんなが私にアイロンをかけてくれと頼んだ。」と何度も言ったり、料理がうまくなかった、スペインの料理はみんなそうだが、脂っこくて、と言ったりした。そのほか、具体的な話は忘れてしまったが、地味で、現実的で、暗い、不器用な人間が想像されるようなことを、彼女は時々口にした。そこには、言葉の裏に流れる、皮肉を言っているが本当は愛している、というような温かみはなく、ただ、どうでもいい人、いてもいなくてもいい人、というような印象を聞く者に与えた。一方、私は、何かを抑えつけているようにも感じていた。自分の親なんだから、ああ入っても本当は、という私の深読みかもしれないが、もし、その何かが何かしらの感情であるなら、彼女の母親は、本当の本当は彼女にとっても「どうでもいい人」ではなかったんだろうと思ったりする。

 その母親に対する態度と正反対に、父親のことは褒めちぎった。とても美しい男性で、いつも陽気で楽しく、人々から人気があった、ということだった。カリスマ性があったとも言っていた。彼女の話を聞くと、何か素晴らしい王子様のように聞こえたが、実際は、彼はアリカンテの漁港近くの、漁師が主に住んでいた貧しい地区に小さな漁家に借家をして家族を住まわせ、一人で街中で理容院を開いていた貧しい人々の一人だった。

 その貧しさを、フィロメナはいつも、フランコ独裁政権のせいにした。実際そうだったには違いない。

 ともかく、その最愛の父が早く死に、彼女は無能な母の代わりに、家族を支えることにした、ということだった。

 

 最初にフィロメナに会った時の印象を、どう表現したらいいだろう。私は、息子の彼女として初めてフランス人家庭に呼ばれ、緊張していた。特に同性の親は、こちらのことをジャッジしてくるように思うから、少し腰が引けるような思いだった。彼のうちに行くことが決まった時、ラインハルトは私に、一人一人のことを、考えながら、「誰々は…やさしい人だよ。」と言った。「やさしい」のニュアンスは、フランス語と日本語では少し違っている。日本人の言う「やさしい」は、フランス語でなら、DOUXかもしれない。フランス人のGENTILは、もう少し元気がいい。でも、私は、その言葉から、穏やかで静かで、こちらを脅かさない、そういう日本式のやさしさを言っていると思ったのだが、彼のためらうような言い方から、厳しいところもある人なのではないかと感じた。

 彼らのうちに着いて、ドアを開けたら、いきなりフィロメナが私にとびかかってきた。フィロメナは私より少し背が高いのだけど、なぜかあの時の印象では、私より小さい、小太りのブルドッグのようなおばさんが、私に噛みつくようにとびかかってきたのだ。日本語で言うような優しさのかけらもなく、無表情で、私の頬に自分の頬を機械的に、でも強く押し当てて歓迎の意を表するビズをした。

 あ、こんな感じの人か、とどう答えていいかわからなかった。しているのビズだけど、私は怒られているような気分がした。