衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

ラインハルトとの16年間 ⑭日仏カップル

 私の在仏20年来の親友の一人、日仏ハーフのミカちゃんは、いつも私に言っていた。フランス人男性で日本人女性を選ぶ人には、あるタイプがいる。「フランス人女性とうまく付き合えないから、従順な日本人を選ぶ」と。ステレオタイプな言い方になるが、フランス人女性は、やはり60年代の性革命を経験した国の女性らしく、男性への服従的な態度がほかの国に比べてほとんど見られないように思う。特に、日本と比べればその違いは大きい。やはり私たち日本人女性には、頭では男女平等と言っても、態度の中に古くから刷り込まれた従順さを女性の美徳とみる価値観が残っている。

 そうでない人も今は多いかと思うが、私たち日本人女性が、自然とアラブ系やアジア系の女性のほうが友達になりやすかったのも、そういう国の女性同士共通する部分があるからではないかと思う。

 そのことを考えると、私はよく、シマの義母エステルに言われたことを思い出す。

 シマは、あのカフェで金髪をなでていたアンリと、数年後結婚した。アンリは白人フランス人である。エステルは、南仏で高校の教師をしていた。彼女の元夫はエンジニアだが、アンリが高校生の時に別れて以来、その時々の恋人と、一緒に住んだり、また別れたり、と繰り返していた。シマとアンリ、ラインハルトと私の4人で彼女の南仏の家に招かれたとき、シマとアンリは婚約中だった。

 エステルは、知的な美人で、性革命とヒッピーの時代を生きた女性らしい自由さを持っていた。そして、シマと私が彼女を手伝って夕飯の支度をしているとき、こう言った。「今の若い男の子たちは、保守的な価値観を持つ東の国の女性に惹かれるのかしらね。」

 シマもきっとそうだが、私も日本人の中では男勝りで、自分で自覚していなかったけど、日本人の留学生グループの仲間から、「リンさんはフェミニストだから」と言われたことがある。私ってフェミニストだったんだ、となんだか新鮮な発見だった。

 私の意見では、私のはフェミニズムではなく、普通のことだ。男だから、女だから、という視点が、私にはない。私の母の育て方がそうだったのだ。それは私には当たり前のことで、取り立ててフェミニズムなどと呼ぶようなものではない。そういうところでは、むしろフランス人女性に近いような気もするのに、日本人だからと言って、昔ながらの女性らしい女性というようなレッテルを貼られるのはどうも不本意だった。それでも、エステルは悪気があったのではなく、どんなに私が男女平等の心を持っていても、私が生まれ育った文化の影響を受けていて、自分にはそれが見えていないことを、それなりにうまく言い当てているのだと思う。

 そのことを、私は今までに何度となく思い出したから、20年近くたった今でも、それを覚えている。

 

 ラインハルトから見れば、私は「扱いやすい」女だったに違いない。反対意見を良心の呵責なく堂々と主張するようなことは、私にはできなかったのだから。

 

 そこには大きな誤解がある。私が結婚した当初、日仏カップルのうち、日本人女性とフランス人男性のカップルは、80%が別れる、というデータがあった。今はどうか知らないが。

 逆に、フランス人女性と日本人男性のカップルは続くことが多く、離婚率は20%言うことだった。やはりそれは、そういう最初の思い込みによる誤解が、少ないからではないかと思う。

ラインハルトとの16年間 ⑬奇妙な告白

 サッカー観戦の後、ほかにも会った日があったかどうか、あまり覚えていない。それでも、私はラインハルトがどんな友達を持っているか、大体どんな生活をしているか、見知っていた。私と同じ国立大学にいたのだから、彼の友達たちも含め、社会階層とか文化・知識的な部分でも、自分と同じような家族の出であるだろうと想像された。そして、彼の友達たちが、彼のことを、少しうざいところがあるけど、「おもしろい、サービス精神の旺盛な、オープンで誰とでも仲良くなれる、フェミニストで女性に敬意を持っているいい奴」と考えていることも、私は見て取っていた。

 それでも、彼が望んでいるらしいような関係は、私にはとても我慢ならないと思っていた。

 

 それなのに、私は全く妙なことをしたのだ。

 

 ある夏の日、ラインハルトのうちに誘われた。13区の小さなステュディオだった。私たちはたいてい13区あたりで会っていたから、近くにいたのだ。確か、何かを取りに行くとか、何かを見せるとかいう口実があり、ちょっと寄ったついでに彼がお茶を出してくれた、そういうシチュエーションだった。

 

 その日のことを思い出し、書こうとすると、なぜそんなことになったのか不思議に思うと同時に、また自分の不甲斐なさがそのあと長く続く不幸の始まりだったと思うと、情けない思いがする。今の自分にできる限り、そうなった理由も深堀して書いてみたいと思う。

 

 そんなふうに、近くにいたからついでに、という軽い誘いではあったけど、私自身は、あまり彼のうちに寄りたくはなかった。寄れば、何かあるとわかっていたからである。

 寄りたくないから、「今日はいいよ。また今度会うときに持ってきて。」というようなことを言ったのだけど、ラインハルトは明るくそしてしつこく、「でもすぐそこなんだ。寄っていけばいいよ。」と何度も言った。実際には、全く同じフレーズではなく、「そこを曲がったとこさ」「そうすればぼくんちがどこかわかるし。」「今度っていつになるかわからないから」などのバリエーションがあったけれど、私の、あなたの部屋には行きたくない、という意思は、汲み取られていなかった。

 

 何かの交渉、何かの話し合いの場合、通常そこに二つのロジックがあって、それが一つのロジックにまとめられるよう話し合う、というのが、当時私の知っていたただ一つの方法だった。だが、ラインハルトの交渉は、そうではない。それを、私は全く理解していなかった。それを理解したのは、ここ1か月ほどのことである。

 ラインハルトの方法は、相手の意向を聞くことなく、同じことを繰り返すことだ。相手の抵抗の言葉に対して、元気よく、「でも、・・・しようよ」と言い続ける。これは、とても単純だけど、案外相手を無理やり従わせるには効果のある手である。まだロジックをうまく使いこなせない小さい子どもたちは、それをよく使うと思う。最近、仕事の場面でもそのシチュエーションにしょっちゅう出会うことに気づいた。

 それは力関係だ。征服することを目的とした同じ意味のフレーズの繰り返しを行う支配者と、それに根負けして屈服する服従者の関係。

 フランスだけではないかもしれないが、今フランスで観察していて、親子間で、よく見られる気がする。

 

 その時彼の部屋に行った最初の目的が何だったか、忘れてしまった。たぶん、それは口実に過ぎなかったんだろう。

 一つだけある小さな窓にくっつけて、小さなテーブルが置いてあった。窓の正面に向かっておかれた椅子にラインハルトが座って、私はその右側、窓の横に座っていた。

 ラインハルトの部屋は、彼の親の知り合いが持っているものだった。入って1mほどの廊下とも呼べない廊下があり、その先が部屋だった。ワンルームで、18㎡くらいはある。パリでは狭いほうではない。安物の板張りの床、殺風景な白い天井、入ってすぐの左の壁にベッドがあり、右に小さな窓、窓の前に一人用のテーブル、右の奥に小さな収納があって、そこにこの時お茶を出してくれた食器類があった。そこが、キッチンのようなもので、小さいな電気調理器と電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機があった。全部むき出しで、四角い部屋の隅を占領している。入って右手の壁に、アルミ製の小さい電話ボックスみたいなシャワー室が置いてある。狭いシャワー室から濡れた体で出てくると、そこはもう部屋のど真ん中になる。

 こういうシャワー室は、私がパリに移り住むときに内見したアパートの一つにあった。あまりのことに、私は即答でその物件を断った。でも、安い物件では、そういうものは結構あるのだろうと思う。

 そのさらに右、窓のあるファサード壁との間の角のところから、5~6段、狭い階段がついていて、その上に狭いトイレがあった。ドアは、メインの部屋に向いている。トイレの天井は低く、腰をかがめないと入れなかった。

 すべてが非常に安普請だったが、一応きれいに片付いていた。ものがちゃんと整理整頓されていて、不必要なものはなかったし、床も清潔だった。

 

 トイレへ行く階段のところに、大きな布袋があって通れないほどで、ラインハルトはそれを、洗濯ものだと言った。洗濯は母親がしてくれるからためてあると言っていた。食事は、母親がくれた電子レンジ調理のレシピ本を見て作るといった。

 私が感心するようなことは何もなかった。

 

 いつもの通り、楽しい友人同士の話をしようとしたけど、ラインハルトは黙りがちで、まるで疲れているか、怒っているかのようにも見えた。私はさっさと帰りたかったが、その時、ラインハルトが、「もう分っていると思うけど」と言い出した。

 告白に、「好きだ」とか「愛している」という愛の言葉はなかった。それを直接的に正直に言ってくれるから告白なんだと思うけど、それのない付き合い始めも、それまでに一度経験していたから、そういう人もいるよなと思った。その前の付き合いは、うまく行かなったけど。

 その時、ラインハルトは、自分はりんと付き合いたいと思っている、でも条件がある、自分はカトリックだから、付き合うということは結婚するということで、結婚するということは、一生涯添い遂げるということだ、と言った。ゆっくりと、不機嫌なような調子で、まるで嫌なことをさせられているみたいだった。私はカトリックではないが、結婚とはそういうものだと思っているので、そう言った。でも、あなたと付き合うかどうかは…と言いかけたが、ラインハルトは窓のほうをただまっすぐに見ていて、私のほうはちっとも見なかった。私は、恥ずかしいのかと思ったが、きっと的外れな解釈だったに違いない。どちらかというと、事務手続きをしているようだった。

 彼は眠いかのように眼鏡をはずして目をこすっていた。近眼の眼鏡越しに見る目よりも大きく、太い黒縁のいつものメガネがないと、少し違って見えた。

 この時はまだ知らなかったが、彼の父親クロードは、かなりの美男子である。ラインハルトの顔は、母親譲りの左右不対称な短い鼻が上を向いていて、全体でみるとちぐはぐな印象を受けたけれど、目の形は美しかった。

 窓の外の光が目に映って輝いて見えた。

 結婚を前提にということでないと、自分は付き合わない、というようなことを、彼は付け加えた。まるで私が、どうしても彼と付き合いたがっているかのようにも聞こえた。そして、だから自分は、今まで誰とも付き合っていない、とも言った。話の焦点が、付き合うかどうか、ではなく、結婚を前提かどうか、に動いていた。

 私には、子どもを持ち、家庭を持ちたいという結婚願望はあった。急に、ラインハルトと結婚したら、自分が持っている女性としてのこれからの人生への不安が一挙に解決されるという気持ちになった。私はもう恋愛はしないと誓っていた。では、なぜ自分は、ラインハルトを恋人にしないなどと考えたのだろう?ほかのだれでも恋人にしないのに?

 ラインハルトのことを、社会的に信用できる人物だと思っていた。大きな会社への就職も決まっていた。決して面白そうな仕事ではないし、私だったら絶対にしないけど、家庭の父親になるには、それがいいと思っているような人は私にとって都合がよかった。それで彼が問題ないのなら、みな丸く収まるのではないか。

 しかも、付き合ってみて、結婚はダメだと思えば、それから別れてもいい。そういう提案なのだ。

 私の結婚願望がそこまで強かったのか、なにか催眠術にかけられたのか、私は何も言えずに、ただラインハルトの話を聞いていた。

 子供が生まれたら、フランスでカトリックとして育てる、そうでないと結婚できない、結婚式はカトリック教会でないといけない、そうでないと結婚できない、離婚もできない、その覚悟がないと結婚できない。

 

 私は、フランスに永住したいという気持ちはなかった。フランス留学が終わったら、その経験を手に、日本へ帰るつもりだった。その当時の私の中途半端な留学生活ではなく、本当の海外生活経験を手に。でも、まったくそれしか考えていなかったのである。フランスで仕事をしたり、子供を育てたりということを、想像だにしていなかった。そういうことにあこがれて海外に来る人もいるだろうが、私はそのカテゴリーには入っていなかった。日本での職歴の方向転換を図りたくて、プールでクイックターンするときの壁板のように、この留学を考えていた。

 ただ、自分にフランスに住む能力がないと思っていたわけではなかった。やればできるだろう、と思っていた。

 

 私はラインハルトの話を聞くうち、初めてフランスに永住する自分という考えに至った。もともと冒険心の強い人間なのだと思うが、高校生の時に東京へ出ていくことがとても楽しかったように、新しい世界への誘いは、私をワクワクさせた。国際的な交流、フランスの知的階層の人たちとの付き合い、日仏二か国語を話すハーフの子供たち、もともと興味があったカトリックやキリスト教との深いかかわり…

 もちろん、同時に、本当に好きでない人と結婚を前提につき合うことへの罪悪感は感じていた。

 「でも、恋はもうしないのだし、結婚相手としては私の考えに合っているようだし、いい人なんだし、考えてみてもいいのじゃないか?」

 

 生来の結婚(家庭を持ちたい)願望と、冒険心と、私の勝手なポジティブな想像の未来像とが、私の背中を押した。ノーと言えない日本人的な部分も、あったかもしれない。

 ラインハルトの一方的な話に、私は割り込む技量がなく、それを語学力の問題やコミュニケーション能力の問題と思っていたが、それは、その後もずっとそうだった二人の関係そのままでもある。そしてそれは、よく言われるとおり、背徳的自己愛性人格障害のある人特有の、洪水のようなたくさんの言葉と、いろんなテーマへと話題を変えていく広がりの中で、HSPの人間が自己の考えの道筋を見失ってしまうという現象そのままだったような気がする。

 それと、私はおそらく共感性が強い。共感性などという言葉があるかどうかわからないが、相手の心に寄り添おうとする傾向が強い。オリオルがそうだから、あの子を育てながら、自分にもそういうところがあるとわかるようになった。当時そんなことはわかっておらず、自分の反応の仕方の特徴を、特に変わっていると思っていなかったから、自分が、断ると決意していたものを、この時なぜそうしなかったのかわからなかった。私は、共感することで相手を理解し、コミュニケーションを進めるという方法しか、知らなかった。コミュニケーションに限らず、すべてのものを理解することにおいても、今日かなんという方法を使っているように思う。例えば、数学の理論のようなものさえ。

 この説明はきっとあまりわからないかもしれない。でも、数学の理論も、頭で理解するのではなく、心で感じ取っている、と言ったら、少しはわかってもらえるだろうか。

 

 私は自分がどのように返事をしたのか、はっきりと覚えていない。ただ、「その条件はみんないいと思う、キリスト教の信条に合わせて子供を育てることは、すばらしいことだし、結婚は一生涯添い遂げるものだ。」とは言った。そして、付き合うか否かについては、きっと煮え切らない承諾らしきものを与えたのだと思う。

 

ラインハルト との 16年間 ⑫  サッカー観戦をした日 のことを 考えてみる

 それまで 二人で 会っていた時には 手をつなごうとか肩を抱こうといったようなそぶりを全く見せなかったラインハルトが、 突然 サッカー観戦をした後の散歩で、 あんなふうにしつこく私につきまとった理由について、 先日書いてみて初めて気が付いたことがある。

  少しお酒が入っていたということもあるかもしれない。 でもそれよりも どうも変だったことは、 私がほかの 友達とはほとんど何の交流もなかったということである。

 ほかの友達と交流できなかった理由を、私はこれまで、 自分の コミュニケーション能力の 低さが主な原因であったと 考えてきた 。国際的なグループの 中で 、言葉や文化の壁を 自分が うまく乗り越えられないからだと思ったのである。

 でもおそらくそれは違うだろう。私は同時に、 ラインハルトから「 囲い込まれて」いたみたいに感じていた。ラインハルトが、 そもそも このサッカー観戦を企画した 目的は、 私を「囲い込む」ことだったのではないかという気がする。目撃者のいる場所で、既成事実を作りたかったのではないかと。

 もし、 ラインハルトが私と 特別な関係になるきっかけを つくりたかったのであれば 別にあんなにたくさんの私の知らない友達を 招く必要はなかったのだ。 ラインハルトは私に新しい友達を紹介してくれる と言ったのに、 実際にはひと言も口をきかなかった相手がほとんどだった。 結果的に、みんなの前で、 ラインハルトは 私を 自分の所有物のように 披露した ような形になった。友達に 自分とこの日本人の 女子学生が 特別な関係であることを 見せて、 私たちの関係を 社会的に、 外側から 決定しようとしたように見える。私は、自分の思っていたのと違う立場に立たされ、衣谷りんとしての存在危機を感じたのと、ほかの友達と交流できない自分にコンプレックスを感じた。 意識的にしろ無意識的にしろ、それが ラインハルトの目的だったのではないかと思う。

 また、ラインハルトには、私がラインハルトと 二人だけで会う事を 断るかもしれないという危惧もあったのかもしれない。 なぜなら、私はラインハルトを恋人にするつもりはなかったし、そのことはきっと、 ラインハルトにも 感じられたに違いなかった。 私が、 フランスで新しい友達を 喉から手が出るほど欲しがっていることを、 ラインハルトはよく知っていた。 だから、 ほかの人たちが来ると言えば、 私が断らない ことは 明らかだった。

 

 そのように、二人の人間関係を、内側からではなく、外から規定しようとするやり方は、 当時の 私にとっては 非常に奇妙なことであったから、 とてもそのようなことに 気づくことができなかった。 でも今 自己愛性人格障害者のことを色々と勉強 してみて、 やっとわかるようになったが、 ラインハルトのような 自己愛性人格障害が ある者にとっては、 当然の やり方だったかもしれない。 彼らには、外面しか存在しないのだそうだから。

 

 私にとって奇妙で理解しがたかったのは、私たち二人の間で 合意があるかどうかということは 彼にとってはどうでもいいことだったということだ。 それが大事なことであるということを、彼にはわからないのだが、それは、普通の人間にとっては、非常に奇妙なことである。

  私が そうしたいのかどうかという 私の意思について 彼が自問したり、尊重したりするということ 全くなかったのである。 私の言っている やめて」 という言葉は、 彼の頭の中には入らなかった。

 そのうえ、 それがわからないということが、 私には全く分からなかったから、 彼の 行為を 私は私なりの考えで説明しようとした。それは結局全然間違っていて、その後十数年、私は間違え続けたのだけど。

 私の説明とは、「フランス人だから押しが強い」、 「『やめて』では通じないが、 どういう言い方をしたらいいのかがわからない」、 そして結局 私は自分のコミュニケーション能力や 文化の壁を越える力の無さに、 この誤解が 起因しているのだと 考えた。

 それがまさしく、 自己愛性パーソナリティ障害のある人に 絡め取られ、 犠牲者となりやすい 人間として よく紹介されている 人の性格にそっくりである。 つまり、 相手の おかしな行為に わざわざこちらから それを正当化するような言い訳を付けてあげたり( この場合、 「フランス人だから」)、 問題があるのは自分の方である と考える 自省 の傾向が強かったりすること( この場合、 相手の思いやりのなさや 理解しよう、相手の意思を尊重しようという気持ちのなさ については全く考えず、自分の 能力の無さ が問題と考えたこと) である。

 そういう心理学分野での研究と、自分の傾向の一致については、 34年前から気がついていたが、 最近さらに思うのは、相手ではなく自分に問題があるのではないか と考える人間には、色んなタイプがいるのではないかということだ。

  少なくとも二つのタイプのことを、今私は考えている。

 一つは、 自分に自信がなく、 何か問題があれば それは自分のせいなんだと思うタイプ。 これもよく言われることだけれど、 自分の親が 自己愛性人格障害があったり、 その他の人生のいろいろな問題のために子供の 心を尊重 できなかったりして、 子供が 責められながら 育ったりした場合、 たしか 依存性とか言うんだったと思うけれど( 全然違うかもしれない)、 自己愛性 対になるような 性格、 お互いに 補完し合うような性格の持ち主である。支配型の自己愛性人格障害者の対で、被支配型の人格である。親が自己愛性障害があった人が、将来自分の伴侶に、自己愛性障碍者を選ぶことが多いという話は、有名だ。

 けれども、 私はおそらくこのタイプではないと思う 中間子で、 姉や末っ子の妹 に比べて あまり可愛がられずに育ったというような自覚はあるけれど、 中間子は中間子で 良いことがいろいろあった ということも自覚していた。 私は、 姉と 妹と それぞれに特別な関係を持っていて それと同じ関係は姉と妹の間には存在していなかったことを知っている。 私は姉の秘密と妹の秘密を知っているけれど、 姉は妹の秘密を知らず、 妹は姉の秘密を知らない。 それは大した秘密ではないし、今となってはみんな忘れてしまったけれど、 子どもの頃の私の自尊心を 満たすには充分であった。 母と私の間も、 私の姉妹と母との関係 とはちょっと違っていた。 私の姉妹と母との関係は、 ごく普通の親しい良い親子関係 であり、 母と私の間には、 特別な共感関係があるように思っていた。 今でもそうではないかなと思う。そして私には、私を特別扱いしてかわいがってくれた素晴らしい祖母がいた。

 私は、自分には自分の居場所があると感じていた。多少、次女らしい依存的な部分や、被支配の立場を楽だと思う傾向はあるかもしれない。それでも、 私には、自己愛性人格障害者に育てられた子供ほどの大きな生育歴の問題はないように思われる。

 私が今まで会ってきた幾人かの心理学者やカウンセラーも、それには同意している。

 

 当時、一時的に、フランス社会へのアクセスができないことについて過敏になっていて、「それは私の能力不足のせいだ」と考えやすくなる傾向は強く持っていた。そこを、自己愛性背徳者の理論を展開する心理学者たちであれば「ラインハルトがうまく使った」と言うだろう。もっと公平な言い方をすれば、ラインハルトには、あるものは使うというふうにしか考えられないのだから、単にお互いの誤解だったということもできる。

 私は、自分のせいでラインハルトは私の気持ちを理解しないから、これからなんとかしなくてはと思い、ラインハルトは、私がラインハルトを切ってしまわないのだから、これでいいんだと思った。

 私がその時ラインハルトから完全に逃げてしまわなかったのは、まずは問題を解決したかったからである。もともと私は問題を解決するのが好きだ。それは、よりよくなれると思うからだ。自分に問題があるのではないか、と私が考えるのは、私は今その能力に欠けている、だが、これから自分がその能力を身につけて、この問題を解決しよう、と思うからだ。そして、私は自分がその能力を身につけられると信じるから、それに手を出すのだ。たぶん、できないと思うことは、自分でやりたいと思わないのじゃないかと思う。

 あの時私は問題を見間違っていたから、できると思って手を出した。もしあの時、問題の真相を知っていたら、やらなかっただろう。

 

 私は自分が、自分に自信のない、捕食者の標的になりやすい弱い獲物であるとは思えない。ただ、全然違う目的が、たまたま変なふうにかみ合って、歯車が回り始めたのである。

 それにしても、私がそれに気付かなかったのは、やはり非常にナイーブで、自分の心を守ることを知らず、その必要がある場合もあることを知らなかったからである。

 私はそれを学べる機会を与えてくれたことで、ラインハルトに、ある意味感謝している。ラインハルトに出会わせてくれた神さまに、感謝していると言ったほうがいいかもしれない。そして、ラインハルトと私だけなら彼を悪者にすることで私の中で終わったに違いないストーリーを、最後まで正しく理解しようと努力させてくれる、私の子供たちにも感謝している。

ラインハルトとの16年間 ⑪サッカー観戦をした日

 マリカちゃんと、ペール・ラ・シェーズ墓地でラインハルトに会った後、マリカちゃんはにこにこして、「ラインハルト君はりんさんを気に入ってるんですね」と言った。

 

 そのあと、またラインハルトから誘われて、みんなでサッカーのリーグ戦を見に行こうということになった。見ると言っても、テレビでである。シマの住んでいた学生寮の近くのカフェで、観戦用のテレビがあるカフェがあった。当時私は、そういうカフェがフランスにはあることを知らなかったと思う。カフェの中に大きなテレビが設置してあって、サッカーなどの人気スポーツのリーグ戦や、ワールドカップなどがあると、ファンが集まり、ビールを飲みながら大騒ぎして観戦する。

 シマはサッカーには全然興味がなかった。フランスでは、サッカー好きはある種の社会カテゴリーの男性に多いため、知的階層を自認するような人たちや、女性から毛嫌いされる傾向がある。日本のプロ野球に似ているかもしれない。

 私は、サッカー熱が高まり始めた日本から来て、サッカーの歴史の長い国の習わしを知らなかったし、私が以前渡仏した年にちょうどワールドカップが行われて、フランスじゅうが盛り上がっていた。ジダンの全盛期で、フランスが優勝した年である。リーグ戦とは違って、ワールドカップはお国柄が出て面白かった。

 だから私は、サッカーに変な印象も持っていなかったし、自分の知らないこと、カフェでサッカー観戦することや、新しい友達に出会えることに喜び、彼の誘いに応じたのだった。

 

 シマ、アンリ、そのほか当時学生寮に住んでいたラインハルトの友達が一緒に来た。ブラジル人のフェリペ、スペイン人のミゲル、スエーデン人のエリザベトなど。私はその時は、ラインハルト以外の人と、ほとんど交流しなかった。ラインハルトに囲い込まれているような感じだった。

 試合を見た時のことはほとんど覚えていない。そのあとパリの14区と13区境目あたりを散歩したことは覚えている。みんなお酒が入ってだらだらと、小さな2~3人ずつの組になって歩いた。私は、ラインハルトがしつこく横にいて、私の手を握ろうとしたり、腰を手を回そうとしたりするのを、かわしていた。私は、それにどう対処していいかわからず、笑って「やめてよ」と言いながら、広い歩道を右に左に逃げた。そうするとふざけているみたいにラインハルトが走って追いかけてきて、その繰り返しだった。周りの人たちは、私たちがふざけているのだと思った。

 それはとても変なことだった。私は、笑いながらでも、「やめて」と言って、そういうことをやめてくれなかった男性を知らなかった。友達たちの前で、私は本気で怒ってラインハルトをやめさせて、雰囲気を悪くするのは、失礼なことだと思っていた。実際は、勇気がないということだったのだと思うけど、まだまだ日本的な社会コードしかわからなかった私には、それがわからなかった。わかるようになったのは、10年以上たってからのことである。

 ともかく私は、最後まで自分を触らせなかったけど、はっきりとノーとも言わなかった。

 

 それにしても、妙にしつこく付きまとわれた。それに私は嫌悪感を抱いた。私ははっきりと、ラインハルトが次の機会には私に付き合おうとか、そういうことを言い出すに違いないと悟ったので、その時にははっきりと断ろうと誓ったのだった。

ラインハルトとの16年間 ⑩ペール・ラ・シェーズ墓地の散歩

 ラインハルトと初めて会った日から、付き合うようになるまでの期間はかなり短かった。3か月もなかったのではないかと思う。しかも、その間、おそらく数回しか会ったことがなかった。

 

 BHVで初めてデートのようなことをした次に会ったのは、ペール・ラ・シェーズ墓地だったと思う。

 この時は二人ではなく、同居人のマリカちゃんと、その服飾学校の友達が一緒だった。その子はフランス人で、エロアンヌというかわいい名前の子だった。ボーイッシュで、髪をベリーショートにして、パイプを吸っていた。後で分かったことだが、彼女は同性愛者で、マリカちゃんのことを好きだったようだ。マリカちゃんは最初それをわかっていなかったが、マリカちゃんのほうでも、友達としてエロアンヌに夢中だった。彼女にとっても、初めてできたフランス人の友達だったような気がする。エロアンヌは、かっこよくて芸術的で、個性的だった。結局、マリカちゃんが同性愛者ではないことが分かっても、二人はずっと友達だった。

 

 だからこの日は、あいまいな関係の二つのカップルが、散歩に出かけたということだった。

 マリカちゃんとエロアンヌは二人でぶらぶらしていたので、私はラインハルトと主に並んで歩いていた。

 

 ペール・ラ・シェーズは、ラインハルトの得意分野だった。私に、入口のところで地図をもらうんだ、と説明した。そんなことは決まりでも何でもないが、彼はそれをまるで非常に大切な決まりごとであるかのように、あるいは、私が小さな女の子であるかのように、「ここではこうするものなんだ」と教え込むような言い方をした。

 今思えば、彼の態度はいつも私に、自分が小さな女の子になったような気分にさせた。5歳くらいの。それでいて、私はいつも、ラインハルト自身は本気でそのことを信じており、例えば墓地のことで言えば、入口で地図をもらうというのが、何か神聖な絶対不可欠なことと思い込んでいるような印象も持った。彼自身が、小学生のように単純に、ある時大人に言われたことをかたくなに信じ込んでいるかのように。

 

 マリカちゃんたちは地図など取らなかった。そして自由に歩き回っていた。

 私は、ラインハルトの気を悪くしては気の毒だと思い、彼が「ここが誰々の墓だ。」と言って回るのに付き合った。

 ラインハルトを長く知っている人はみんな知っていることだが、ラインハルトはペール・ラ・シェーズで、地図を片手に墓を説明して回るのが好きだった。彼の友人の中には、それをうるさがっていやがる人もいる。彼は、墓地というものがどれも好きなようだったが、特にペール・ラ・シェーズが好きだった。起伏があって、風景がいろいろに変わり、木が生い茂っているから、というようなことを言っていたと思う。

 だから、私はラインハルトといた長い年月の間、何度かペール・ラ・シェーズに行った。ラインハルトの親戚や、遠くから来た友人のパリ観光に付き合うときには、ラインハルトがペール・ラ・シェーズをそのコースに入れたからだ。そのたびに同じ説明、同じコメント、同じギャグを言ったが、私はそのどれ一つも思い出せない。

 

 私は今は、ペール・ラ・シェーズにショパンが眠っていることを知っているが、それはオリオルがショパンを好きになった後だった。ラインハルトがなぜ、ペール・ラ・シェーズを好きだったのかということを、今考えてみれば、たぶん、その地図に名前と墓の位置が書いてある歴史上の人物、文化人、政治家、有名人などについて、自分の豆知識を披露するのが好きだったんだと思う。浅い広い知識は、私にはまったく面白くなかったが、その時聞くだけであれば、私であれ誰であれ、その場では「ふうん」と思って聞いた。その日の夜には忘れてしまうようなことでも、そこを見て回っている間は、みんなラインハルトの話を聞くでもなく聞いている。

 親切な人は、一生懸命質問までして面白がって聞いてくれ、ラインハルトに、骨を折って自分たちの観光に、こんなマイナーかつ興味深い場所を組み入れてくれたことを感謝した。

 

 その初めてペール・ラ・シェーズに行った日、ランハルトがなにやら文学者の墓を私に見せて、その文学者の話をした。誰だったかは記憶にない。フランス文学は、私はほとんど知らない。サンテクジュペリとサガンくらいしか、読んだこともなかった。

 今思えば、おそらく、フランスの国語の教科書に出てきて誰でも知っているような文学の話だったのかもしれない。でも、当時の私には、知的な話に聞こえた。私は、「あなた、文学が好きなのね?私はフランス文学はわからないけど、文学は好きだわ。ロシアとかアメリカのなら、日本文学以外も読む。翻訳だけどね。」というようなことを言った。そうすると、ラインハルトは一瞬妙な間があって、無表情に、そしてぶっきらぼうに、自分は文学が嫌いだといった。自分が好きなのは、歴史だ、と。そして、小説とかそういうものは全くわからない、と言った。

 その言い方は、怒っているようにも見えた。小説や文学か、それにまつわる何かへの憎悪を感じた。そして、その怒りから、それを踏みにじろうとするような、罵倒しようとするような、そんな感じも受けた。そして、同時に、文学を好きだといった私の気持ちも、少し傷つけた。でもそれは、非常に微かに感じただけだったので、その妙な感じの背後に何があるのかわからないまま、私は驚きながらもそっと許した。

ラインハルトとの16年間 ⑨自己愛にあった欠陥

 よく、PNの獲物となる人は、本人の自己愛に欠陥があると言われる。もともと、自分に自信がなく、人に頼りがちだったり、人の承認を必要とする人間である場合もあるが、タイミングもある、ということをよく聞く。

 例えば、新しい職場で、試験期間を乗り越えて正社員になりたい、あるいは、新しい恋人にかっこ悪いと思われたくない、新しい友人グループに気に入られたい、など、どこかに恐れがあるときなどがそうだ。

 私はもともと、個人的に自分に自信のないところがあったのも確かである。自分がいつもみんなから愛される、というふうには思えない人間だったし、ラインハルトと別れてから、自分が直感的に感じていることを正しいと納得するために、自分以外の誰か、できれば権威のある人、弁護士だとか精神科医のような人、に、私の考えを承認してほしいと思っていることに気づいた。ラインハルトの繰り返された欺瞞によるダメージで、それを必要としていた部分もあるが、確かに私には、普段からそういうところが少しはあったのかもしれない。

 

 さらにそれに加えて、フランス人から見ると、謙虚な態度をよしとされる文化で育っている日本人は、表向きは従順で自己卑下するので、自分に自信がないように見えたと思う。これは全くの誤解ではあるが。

 そのうえ、当時いつも外国人として扱われ、言葉も分からないことが多く、疎外感を感じていた。フランス留学を成功させ、生き残るには、言葉や文化の違いを乗り越えなくてはならないと焦っていた。そのためには、一人で机にかじりついて勉強してもすぐに限界が来る。どうあってもフランス人の中に溶け込んでいく必要があり、ぜひともフランス人の友達が欲しかった。

 

 さらに、一生の恋を終わらせたばかりで、精神的に参っていた。

 

 当時の私の心からの望みは、フランス人の中に入っていく扉を見つけることだった。そして、当時私が持っていた日本人の友達と同じような、心の通い合う仲間をフランス人の中に見つけることだった。

 そして、私がずっと心の中に持っていた一生の望みは、いつか結婚して子供たちを持つこと、家庭を築くこと、そして、興味深くやりがいのある仕事とその家庭生活、特に子育てを両立して生きていくことだった。その夢は、職業での成功を求める野心のように、はっきりと表に出て意識している夢とは違い、そのはっきりした夢の背後で、静かにずっと鳴っている伴奏のようなものだった。私には、それはあまりにも当たり前なことに思えたし、そうなるものだと思い込んでいたと言ってもいいかもしれない。だから、それを願望として意識してさえいなかった。

 

 これは余談だけど、実際それがその後、現実の中で私が何の準備もなく困難にぶち当たって、場当たり的に対応することになった訳を明らかに示しているように思うので、ここに書いておく。

 そのころ具体的に空想できたことは、私自身の父親がほぼ不在の成育歴のせいで、自分と子供関係が主だった。私は良い夫婦関係や、よい父親というのを、テレビや小説の中でしか見たことがなかった。私は、将来自分が子供たちに囲まれて暮らし、赤ちゃんを抱っこしたり、食事を作ったり、手作りのお菓子を焼いたり、習い事に連れて行ったり、慰めたり、励ましたり、一緒に笑ったりすることしか、想像しておらず、自分の将来の夫は、その絵の中にいるにはいるけれど、影のような存在だった。年をとっても仲がいい、チャーミーグリーンのコマーシャルに出てきたかわいい老夫婦のように、手をつないで散歩するのだ、それくらいの考えしかなった。

 

 私が思うに、ラインハルトは私がフランス人と友達になりたいという生き残りをかけた望みも、それとは無関係に私の中に存在していた結婚願望や子供・家庭に対する願望を嗅ぎ取っていたのだと思う。

 だから、何か唐突に思えたけれど、彼は私に、結婚を前提とした付き合いを提案したのだと思う。

ラインハルトとの16年間 ⑧BHV、最初のランデヴー

 ラインハルトは、私のレポートを手伝いにきた時、素晴らしい場所を教えてあげる、と言った。なぜそれが、日曜大工の殿堂BHVだったのか、よくわからない。でも、日本人の私が知らなそうな場所で、観光客が行かない場所で、彼自身が面白いと思う場所だったのかもしれない。

 

 私は素晴らしい場所がBHVだったので、がっかりした。当時私もBHVは知っていたと思う。でも特に興味はなかった。

 私たちはそれでも、パリのオテル・ド・ヴィルの前で待ち合わせた。夏の始めの天気のいい日で、私はメトロを降りて、人通りの多い市役所前の広い広場に出た。広場の、市役所の建物の反対側に出たら、人ごみの向こう、市役所の建物の近くを手持無沙汰に行ったり来たりしているラインハルトが小さく見えた。

 

 フランス人は、10代のころは細くても、20代に入って、太ってくる人が結構いる。日本人から見ると、中年太りのようにも見えて、フランス人が年上に見える原因の一つでもあると思う。こんなに太っているから、もうおばさん(おじさん)なんだろう、と思ってしまう。

 ラインハルトも、その例にもれず、20歳くらいまでは細かった。あとで20歳前の写真を見たときびっくりした。

 26歳の彼は、顔がぷっくりして顎が首につながりかけていて、みっちりと腹回りに肉がついていた。だから、建物の前を行ったり来たりしている姿を横から見ると、ジーンズに律義に裾を入れたシャツのおなかのところが、苦しそうに出っ張っていた。

 前の恋人は、ラインハルトと同じ年で、細い腰と締まったおなかをしていた。

 この時すでに、うすうす、ラインハルトは私をガールフレンドにしようと思っているのではないかと疑っていた。そんなふうに、レポートを手伝った後、用もないのに日曜日にBHVに誘うのは、なんとなくそういうことかなと思った。

 私の周りにやってくるそういう男の子たちは時々いたし、本当にそんな話になれば断ればいい、そう思っていた。ラインハルトを彼氏にするというのは、考えられないことだった。彼が太っているからではなく、友達としてはすごくいいけれど、恋人にするような魅力は感じなかった。

 それに、そういうふうに私の周りに寄ってくる男性からは、この人は私に恋をしている、と感じるものである。愛されている、と感じるものだ。たいていの場合。でも、ラインハルトには、ほぼ何も感じなかった。

 

 でも後になって思うと、ラインハルトが誰かに恋をするなどということは、あるのだろうか?と思う。誰かのことを、世界の光だと感じるような、その人に目を奪われて見入ってしまうような、その人のそばにいるだけで、生気がみなぎって生き返ったような気持ちになるような、そういう相手を、ラインハルトは持つことができるんだろうか?

 

 BHVをふらついた後、ラインハルトは、私をシテ島の散歩に誘った。セーヌ河がキラキラして、シテ島の建物は美しかった。私たちは、アイスクリームを買って岸辺に座った。私は、アイスならフルーツ系のシャーベットより、バニラやチョコレートのクリーム系が好きだ。私が子供のころ、母がいつも、アイスでも水と砂糖だけのようなシャーベットより、少しでも栄養のある、乳製品の入ったアイスクリームを選ばせたからかもしれない。

 ラインハルトは、私にシャーベットを薦めた。自分はレモンシャーベットを選んだ。私はバニラなどを選ぶのは居心地が悪く感じ、ベリー系のシャーベットにした。

 シャーベットはやはり甘いだけで、私はあまり好きではなかったが、ラインハルトの気を悪くしては悪いと思って我慢して食べた。

 今思えば、ラインハルトのペルチエ家では、シャーベットが好まれた。「軽い」というのが理由だった。ラインハルトの母親は、自分は太っていたが、しょっちゅう、「これは軽い」と言っては食べ物を選んだ。軽いとたくさん食べられるからだろうか。なんだかよく分からないが、軽いのがよく、それで太ってしまっていることに、あまり気づかないようだった。

 

 アイスを食べながら、セーヌ側の流れるのを眺めて話をした。でも、ラインハルトは、途中で何度もあくびをした。私はおかしくなった。人を誘っておいて、あくびをしている。あくびくらい我慢できないのか、それとも疲れたなら、もう帰ったほうがいい。

 私はラインハルトに、あくびをしていることを指摘した。寝不足なの?と聞いた。彼は、眠いんじゃないが、川面を見ているとあくびが出ると言った。その言い方はほとんど不機嫌とも解釈できるようなもので、私はどちらかというと笑いたい気分だったので、肩透かしを食らったような気持ちになった。たぶん、自分の無作法を指摘されて、今子育てをしながらやっとわかるようになったのは、自分の母親にそういうことを指摘されるときと同じような反応だったのではないかと思う。「いちいち文句を言うなあ、めんどくさい」というような。

 でも私は、出会ったばかりで、自分が誘った新しい友達に、そういうことを思うとは想像もつかなかったので、ただ意味不明だった。それと同時に、妙な違和感を感じたものだった。

 

 恋する相手と腰かけて、初めてアイスを並んで食べていたら、あくびなんて出ないものだと思う。それを恋だと思っていたに違いない彼は、おそらく誰にも恋などしないのではないかと思う。