衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

ラインハルトとの16年間 ⑲母フィロメナとルフェーブル家

 私は一度だけ、フィロメナの雇い主だったルフェーブル夫妻のうちに行ったことがある。

 ルフェーブル夫妻は、もともとパリの出身だったが、当時フランス領だったアルジェリアで起業していた。ルフェーブル家は、昔からのお金持ちで、パリのブルジョワ階級の家系である。その後、フランスに戻ったルフェーブル家は、パリには戻らず、エクスアンプロヴァンスに住み着いた。エクスは、こんな言い方はおかしいかもしれないが、フランス国内でも特に金持ちに好まれる街だ。

 当時私は、あまりそのあたりの事情を知らなかったと思う。フランスでは、貧富の差や階級差のようなものが、移民と白人フランス人の間の格差もあって、日本より目立つ。今、パリ東郊外に住んで、シングルマザーとして子供たちを学校にやっていると、以前パリの治安のよい地区に住んで、大学や自分と同じような研究者のいる会社へ通っているときには見えなかった、フランスの普通の人たちや下層階級の人たちを間近に見る。間近に見るどころか、自分自身が、お金のない移民の一人なのだと思う。

 当時はそんなこととは思いもしかなったから、ルフェーブル夫妻に会うことは、私にとっては、ラインハルトの上司やラインハルトの親の親戚に会うのと、何ら変わりはないと思っていたが、今思えば、ベビーシッターのスペイン娘の息子ラインハルトの妻となる私と彼らの間には、立場上階級差のようなものがあり、それを私以外の皆が意識していた。

 

 いつもいばっていて、だれにも屈しないようなフィロメナが唯一怖れていたのが、ルフェーブル夫妻とその家族だったと言っていい。そのことを絶対に本人は認めないだろうけど。

 彼らに対しては威張ることはできなかったのだと思う。へりくだった自分を、彼女自身受け入れることがもうできなくなっているのだと思う。

 

 

 事あるごとに、ルフェーブル家の話を我が事のように話すのを好んだフィロメナに、家族は、もうそろそろ、ルフェーブル夫妻もお歳だから、元気なうちに一度会いに行ってはどうだと言うことがあった。そんなことを言い出すのは、ラインハルトか、ブランディンだった。コリーヌやクロードは言わなかった。ラインハルトやブランディンは、フィロメナが本当はルフェーブル夫妻に会いたくないことを知っていて、わざと意地悪をしていたのだと、今になればわかる。

 フィロメナは、それに対して、今は自分の足の具合がよくないからその手術が済んでから、とか、次の夏にはスペイン旅行を入れてしまったから無理だけど、もう来年中にはいくつもりだとか、そんなことを返事していたが、今に至るまで、結局一度も行かないでいる。フィロメナより年上の夫妻は、すでに80を超えたフィロメナよりさらに体力もないだろうし、もしかすると、私がラインハルトと別れた後、私が知らない間に亡くなっているかもしれない。

 それでも、フィロメナはほっとしこそすれ、会わなかったことを後悔するとは思わない。

 

 ルフェーブル家の3きょうだいは、長男トマ、長女ジャンヌ、次女ヴェロニックと言った。フランスの、いわゆるいい家の典型的な、聖書に出てくるいかにも「カト」っぽい名前だ。お兄さんのトマは、テニスとヨットを趣味とする金髪の長身の男性で、細長い顔がルフェーブル氏によく似ていた。彼は大学でマーケティングを学んで、家業を継いだ。ジャンヌは、濃い栗色の髪の背の低いかわいらしい感じの人。大学まで進学して、どこかで働いていた。南仏のどこかの街に結婚して夫と子供たちと暮らしていた。私はこの二人のことはほとんど知らない。

 ただ、トマについては、ラインハルトから時々聞いた。フィロメナは、ラインハルトを、トマ・ルフェーブルのように育てたかったということだった。ただ、ラインハルトをトマのように育てたいなんて、なんだか全くそぐわない感じする。私は今、自分が書こうとした分かりやすいと思った例えにちょっとぎょっとするが、書いておこう。猿に無理やり素晴らしい衣装を着けるような…。

 

 そもそも、ペルチエ家の内装、家具のしつらえ、食事の仕方、服の着方などは、ことごとくルフェーブル家の真似であるらしかった。もちろん、同じ品質の品物ではないけれど、なんとなく裕福な家庭が持っているようなものをまねたものだった。

 フィロメナは、黒い靴は夜会のためのものだから、昼間仕事に履く靴は、茶系でなくてはならないと言った。それが上流階級の身だしなみであり、それを無視して昼間から黒い靴を履いている人は、ただの成金ということだった。フィロメナは、そのような類のことをいつも言った。

 家の中のソファーや、システムキッチン、食卓と椅子なども、クラシカルな雰囲気のあるものばかりだったし、服装も、当時は私にはわからなかったけど、いわゆるヴェルサイエ(ヴェルサイユ人)風のスタイルを踏襲していた。

 だから、よく知らない人、あるいはアラブ移民系の人から見ると、フィロメナは、金持ちの奥さんに見えるらしかった。その実は、ごく普通の中流家庭で、彼女は庶民の出なのだけど、見た目だけはうまくそろえてあった。

 フィロメナの生活は、形がとても重要だった。見た目、と言ったほうがいいかもしれない。子どもたちは、いつもきちんと特別清潔なアイロンのかかった新しい服を着て、かわいらしく、マナーを守り、立派な態度をとらなくてはならない。食事はいつも、同じパターンで、食前酒、前菜、メイン、チーズとサラダ、デザートが用意されていた。特に素晴らしいセンスがあるわけではないけど、一応一通りの盛り付けがされている。食器類もいつもちゃんとそろっていたし、ナプキンやテーブルクロスも、シミ一つなくアイロンがかかっている。

 うちの中はいつもきちんと整理整頓されていて、どの引き出しを開けても、きれいにすべてがたたまれ、並べてある。掃除が行き届き、ほこりの溜まった隅などもない。

 生活全体が、彼女の考える上級なスタイルでコントロールされているが、どことなく不自然な、あるいは薄っぺらな感じが付きまとう。快適ではあるが、温かみや人間らしさのようなものは感じられない。

 

 ラインハルトは、唯一の男の子だったから、フィロメナは憧れていたルフェーブル家の長男のように、将来、テニスを趣味とし、立派なマナーを身につけ、ちゃんとした企業で素晴らしい役職に就くということが求められていたと、言っていた。そのプレッシャーに苦しんだ、というより、それをかわすことに長けていたし、どちらかというと、母親は貧しい国の出で、ルフェーブル家に影響を受けたから、と、どこか突き放したような、母親を馬鹿にしたような言い方をすることが多かった。

 ラインハルトは、トマとは似ても似つかない。背こそ高かったが、20代中盤でおなかが出てきたので、フィロメナは会うたびにラインハルトに痩せろと言った。ラインハルトはテニスを憎み、サッカー観戦が好きだった。テニスや立派な役職よりも、現実には、出っ張ったおなかが争点になった。それを言われると、ラインハルトは明らかに嫌そうだったし、自分が太っていることを認めまいとしていた。体重が2キロ減ったときは、みんなに「2キロ減った」と吹聴して回ったが、3キロ増えたことは決して言わなかった。それは、私の知っている期間いつでもそうだった。発言だけを聞いていると、彼は全部で10キロくらいやせたことになるけど、実際はどちらかというと太っていったのだから、当然、痩せた分をどこかで取り戻して余りあったはずだった。

 

 そんなペルチエ家の見せかけのモデルである、エクスのルフェーブル家を私たちが訪ねたのは、まだ少し寒い春先のことだったと思う。私たちは、あと数か月で結婚する予定になっていて、結婚前に、ラインハルトの婚約者である私を、ペルチエ家の恩人であるルフェーブル家に紹介するためだった。