衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

ラインハルトとの16年間 ⑧BHV、最初のランデヴー

 ラインハルトは、私のレポートを手伝いにきた時、素晴らしい場所を教えてあげる、と言った。なぜそれが、日曜大工の殿堂BHVだったのか、よくわからない。でも、日本人の私が知らなそうな場所で、観光客が行かない場所で、彼自身が面白いと思う場所だったのかもしれない。

 

 私は素晴らしい場所がBHVだったので、がっかりした。当時私もBHVは知っていたと思う。でも特に興味はなかった。

 私たちはそれでも、パリのオテル・ド・ヴィルの前で待ち合わせた。夏の始めの天気のいい日で、私はメトロを降りて、人通りの多い市役所前の広い広場に出た。広場の、市役所の建物の反対側に出たら、人ごみの向こう、市役所の建物の近くを手持無沙汰に行ったり来たりしているラインハルトが小さく見えた。

 

 フランス人は、10代のころは細くても、20代に入って、太ってくる人が結構いる。日本人から見ると、中年太りのようにも見えて、フランス人が年上に見える原因の一つでもあると思う。こんなに太っているから、もうおばさん(おじさん)なんだろう、と思ってしまう。

 ラインハルトも、その例にもれず、20歳くらいまでは細かった。あとで20歳前の写真を見たときびっくりした。

 26歳の彼は、顔がぷっくりして顎が首につながりかけていて、みっちりと腹回りに肉がついていた。だから、建物の前を行ったり来たりしている姿を横から見ると、ジーンズに律義に裾を入れたシャツのおなかのところが、苦しそうに出っ張っていた。

 前の恋人は、ラインハルトと同じ年で、細い腰と締まったおなかをしていた。

 この時すでに、うすうす、ラインハルトは私をガールフレンドにしようと思っているのではないかと疑っていた。そんなふうに、レポートを手伝った後、用もないのに日曜日にBHVに誘うのは、なんとなくそういうことかなと思った。

 私の周りにやってくるそういう男の子たちは時々いたし、本当にそんな話になれば断ればいい、そう思っていた。ラインハルトを彼氏にするというのは、考えられないことだった。彼が太っているからではなく、友達としてはすごくいいけれど、恋人にするような魅力は感じなかった。

 それに、そういうふうに私の周りに寄ってくる男性からは、この人は私に恋をしている、と感じるものである。愛されている、と感じるものだ。たいていの場合。でも、ラインハルトには、ほぼ何も感じなかった。

 

 でも後になって思うと、ラインハルトが誰かに恋をするなどということは、あるのだろうか?と思う。誰かのことを、世界の光だと感じるような、その人に目を奪われて見入ってしまうような、その人のそばにいるだけで、生気がみなぎって生き返ったような気持ちになるような、そういう相手を、ラインハルトは持つことができるんだろうか?

 

 BHVをふらついた後、ラインハルトは、私をシテ島の散歩に誘った。セーヌ河がキラキラして、シテ島の建物は美しかった。私たちは、アイスクリームを買って岸辺に座った。私は、アイスならフルーツ系のシャーベットより、バニラやチョコレートのクリーム系が好きだ。私が子供のころ、母がいつも、アイスでも水と砂糖だけのようなシャーベットより、少しでも栄養のある、乳製品の入ったアイスクリームを選ばせたからかもしれない。

 ラインハルトは、私にシャーベットを薦めた。自分はレモンシャーベットを選んだ。私はバニラなどを選ぶのは居心地が悪く感じ、ベリー系のシャーベットにした。

 シャーベットはやはり甘いだけで、私はあまり好きではなかったが、ラインハルトの気を悪くしては悪いと思って我慢して食べた。

 今思えば、ラインハルトのペルチエ家では、シャーベットが好まれた。「軽い」というのが理由だった。ラインハルトの母親は、自分は太っていたが、しょっちゅう、「これは軽い」と言っては食べ物を選んだ。軽いとたくさん食べられるからだろうか。なんだかよく分からないが、軽いのがよく、それで太ってしまっていることに、あまり気づかないようだった。

 

 アイスを食べながら、セーヌ側の流れるのを眺めて話をした。でも、ラインハルトは、途中で何度もあくびをした。私はおかしくなった。人を誘っておいて、あくびをしている。あくびくらい我慢できないのか、それとも疲れたなら、もう帰ったほうがいい。

 私はラインハルトに、あくびをしていることを指摘した。寝不足なの?と聞いた。彼は、眠いんじゃないが、川面を見ているとあくびが出ると言った。その言い方はほとんど不機嫌とも解釈できるようなもので、私はどちらかというと笑いたい気分だったので、肩透かしを食らったような気持ちになった。たぶん、自分の無作法を指摘されて、今子育てをしながらやっとわかるようになったのは、自分の母親にそういうことを指摘されるときと同じような反応だったのではないかと思う。「いちいち文句を言うなあ、めんどくさい」というような。

 でも私は、出会ったばかりで、自分が誘った新しい友達に、そういうことを思うとは想像もつかなかったので、ただ意味不明だった。それと同時に、妙な違和感を感じたものだった。

 

 恋する相手と腰かけて、初めてアイスを並んで食べていたら、あくびなんて出ないものだと思う。それを恋だと思っていたに違いない彼は、おそらく誰にも恋などしないのではないかと思う。