衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

子どもの絵、子どもの演奏

 オリオルはピアノを弾く。町の公立コンセルヴァトワールで週に一回レッスンを受け、あとは自宅で、私がレッスンを聴いてごちゃごちゃ言う。私は、日本の小中学校で習った以上の音楽の知識はないし、楽器を習ったこともない、完全な門外漢。

 父親のラインハルトは私よりひどくて、楽譜も読めない。フランスの学校教育では、音楽の譜読みは基礎も習わないようだ。ただし、ラインハルトは子どものころ数年間にわたって、自宅にピアノの先生が来てレッスンを受けていたというから、謎だ。

 ラインハルトいわく、「先生はやる気のない大学生だったんだ。あんまり口も利かない人で、俺が練習してなくても何も言わなかった。毎回同じことやって、適当にごまかしてバイト代をもらってたんだ。うちの親も、音楽なんかどうせ分からないから。」

 

 オリオルのピアノ歴や、ピアノを始めたきっかけや、彼の才能などについて、また別なときに書きたいけれど、今日は、つい先日、ふと気づいたことを書いておく。

 

 子どもの音楽の演奏と、子どもの絵って、同じ特徴を持っているはずだと言うこと。

 私は、大学で美術教育は受けた。なので、音楽はど素人だけど、絵のことはちょっと分かる。

 

 一年位前に、テレビで、オーストラリアだかアメリカだかで注目されている10代前半の女の子の「画家」のルポルタージュをやっていた。有料展覧会をしたり、画廊で作品が売られたりする、プロの画家だ。しかもかなりの高額で作品が売買されるらしかった。私はその子の作品を、特にいいとは思わなかった(今思い出そうとしても思い出せない)が、なんとなくその話自体に興味を持ってその番組をみていた。

 たぶん、それが10代前半の少女だから話題になるのではないかと、思わなくもない。もちろん、彼女が大人になって、さらにいい絵を描くようになって、私も感動するかもしれなくて、そうなったらいいと思うけど。

 その番組のなかで、印象に残っているのは、美術評論家だか、ギャラリーの人だかが説明していた、その子の作品の、普通の子どもの絵と違いだ。その人が言うには、その違いとは、作品としての完成度だそうだ。

 

 子どもの絵というのは、たいていすばらしい。実はオリオルは絵の才能もあるのだけど、オリオルが赤ちゃんのときに描いた黒々した塗りつぶしは、中国の名人が書いた書のように美しい。その少女画家の作品も、子どもらしい自由さにあふれている。

 が、ほかの子どもの絵と違うのは、彼女の絵は、完成しているということだった。子どもの絵は、たいてい完成しない。子どもは絵を描くとき、そもそも目指しているものもなく、なにかを表現しようとして描きはじめて、本人の表現欲求がおさまったところで、絵の状態には関係なく終わってしまう。

 

 だけど、完成しているっていうことが、才能なんだとは、私にはどうも思えない。完成しているから、今、いい見せ物にはなるけど・・・。

 

 逆に、子どもの絵って、私は未完成でいいと思う。才能のある子どもの絵がほかの子の絵とどう違うかというと、たぶん、なにかの最初のところとか、なにかの途中のところとかが、きらきらと、いきいきと、その子の個性と感受性を表現して、楽しく躍り出ている部分がある、という絵だと思う。そして、それがうれしくて、その子は中途半端でも、絵をどんどん描くだろう。そうして上手くなっていく。

 私は、絵のことは分かるつもりでいるから、絵がそうであるならピアノ演奏だって・・・と、この間オリオルの演奏を聴きながら、ふとおもったのだ。

 

 オリオルの演奏は、一曲の間に何度もミスがある。しっかりと指のコントロールがし切れない箇所がある。それでも、すばらしいフレーズを歌う部分が随所にあるのだ。自分の気持ちをしっかりと旋律に載せ、心に語りかけ、人を気持ちよくする力を持っている箇所が、間違いなく、力強く現れる。

 それが、オリオルの先生をして、「オリオルはなにかか違う」と言わせる部分だと私は思う。

 

 それが分かって、そのときやっと私が、オリオルに、「完璧を目指さなくていい」と本心で言えた。今まで、「作品」として仕上げることを、私自身がオリオルに無意識に目指させていたんだと思う。オリオルが、ミスをすると苛立つのは、私のせいでもあった。

 

 子どもはリズムの規則性も苦手だとよく思う。テンポが一定に保てない。子どもの演奏を聴くと、リズムがばらばらになってしまうから、柱がまっすぐに立っていない建築物のように、ぼろぼろな印象を受けてしまう。

 カッサンドラのフルートの先生がいつも、子どもでも、まずはリズム、音があるべき場所で鳴る、を一番厳しく言っていたけど、確かにリズムという柱がしっかり立つと、構造がはっきりして、音楽として初めて成り立つ、というのは、よく分かる。でも、これが子どもにはかなり難しいことだと思う。

 子どもの頭のなかでは(大人だってそうだけど、子どもはもっと)、時間は、時計のように一定の速さで流れないんだな、とよく思う。テンポは時間だから。一秒が1分に感じられたり、一時間が一瞬で過ぎたりする子どもにとって、四分音符=60などというのは、あまり意味をなさない、感じ取りにくいことだ。

 そんな年齢的に不可能なことを無理強いするより、オリオルの頭の中に流れる時間のまま、空を飛ぶような、空中を一回転するような、階段を駆け下りるような、そよ風がかわいらしい顔を撫でるような、ゆっくりと水滴が垂れるような、重い足を引きずって歩くような、暖かい息がじんわりと手袋を伝って感じられるような、そんな気持ちを楽しみながら、ただひたすら弾けるようにしてやったほうがいいに違いない、とそんな気持ちになった。

 

 今度オリオルが帰ってきて、ピアノを弾くときには、そうしよう、と思う。