衣谷の日記

フランス在住働くシングルマザー

あまりにもできなくても大人はがっかりしない

 フランス生まれフランス育ち、11歳になるわが家の双子。日本語は喋れるけど、漢字が読めないために、読み書きにおいてはかなりのハンデがある。

 3年くらい前だと思うけど、私は子供たちの日本語アトリエの先生に、「夏目漱石を原文で読めるくらいになってほしい」と豪語した。いや、それは無理でしょ、とは思うけど、気持ちとしてはそれくらい。大人になった時、私と日本語で、文化や社会や歴史について、対等に話せるだけになってほしい!だって、私がフランス語でそれを実現するより、彼らが日本語でそれを実現する方が、絶対簡単だ。

 なんと言っても、彼らは生まれた時から二か国語にさらされてきたバイリンガルであり、一方の私は、29歳で移住して、住み始めてからフランス語を覚えた外国人である。

 

 さて、そんな私の希望をよそに、わが娘は漢字を覚える気がない。アトリエのクラス4人の子供のうちで、一番何も覚えていない。そしてそれに罪悪感もない。娘のために言い訳すれば、双子の兄以外の二人のうち一人は、日々カップルのお子さんである。…とはいっても、彼女もフランス生まれのフランス育ちで、年も下。あまり言い訳にならない。もう一人の子も年下ではあるが、その子は週一で日本人学校へ通って勉強している。

 うちの子たちは好きなことしかしないキリギリスなので、漢字ドリルなどもやるはずがなく、特にカッサンドラはひらりひらりと日本語の本を読んでみては、投げ出す、を繰り返している。

 

 前々回のアトリエで、先生が例文に使ったのは、うちの子供たちが最も苦手とし、大嫌いな、「説明文」だった。お話であれば読まなくもないが、「説明文」というものは、退屈で死にそうらしい。

 それは、ハチドリの生態を書いた短い文章だった。一番読めない子であるカッサンドラに、先生は「じゃあまずカッサンドラが読んでみようか?」と提案した。もちろん、分からないところは『なになに』だ。

 

 カッサンドラ「ハチドリは、何々のみつをすうために、何々にとまっている。このとき、何々をうえ?した?するのではなく、8の何々をえがくように、何々の何々とうらを何々しながら何々ばたいている。」

 私は内心、(これじゃわからんだろう、いくらなんでも)とつぶやく。こうなったら、どっか一つ二つ教えてやらないといけないだろうし、なんといってもがっかりして続ける気にもならない。

 ところが、先生はまったくくじけない。全然動じないのだ。

 先生「うん。それで?もうちょっと続けてみて?」

 カッサンドラ「この何々きを一何々に四〇回もしている。」(「回」だけ読めた・・・)

 

 先生は、カッサンドラに、何の話しているか分かる?と聞いた。「ハチドリがみつをすうところ。なんかしらんけど、なにかしながら。」

 先生は、「そうそう。ハチドリがみつすってるのね。それでなんかしてる。漢字分からなくても、分かるでしょう。(そうかな?と疑う私)じゃあ、先生が一回読むから、聞いててね。」

 先生は、何々をそのままにして、カッサンドラが読んだことをそのまま読んだ。途中で、「何々ばたいている」と言ったら、カッサンドラが、「あ、はばたいている!」と言った。

 先生「そうそう。この字、羽ばたくっていうのね。ここにもここにも同じ字があるね。ばたばたするの、上、下、に、なんだと思う?」

 カッサンドラ「レ・ゼル?」

 先生「そう!日本語は?」

 ほかの子が、「はね!」。カッサンドラも、「あー、はね、はね。」と、なんで私そんな基本的単語が出てこなかったんだろ、みたいな顔で笑う。

 「8・・をえがくように、はばたいているってどんなだろう?」と先生が言うと、みんな、手をバタバタさせて、「こうかな?」「こうじゃない?」とやっている。

 「羽の何々とうらを、っていうのは、なんだと思う?」と先生は手を羽のようにバタバタさせてみせる。「おもてとうらだ!」

 

 この調子で、結局すべての何々を当てられるまで、先生はただカッサンドラの日本語の語彙の記憶を導いていく。漢字は知らないけど、言葉は知っているし、熟語で出てこなくても、意味は知っている。意味を知っているような熟語は、どこかで聞き知っていることも多い。自分では「上下」と言わないけど、聞けば知っている。

 

 先生は最初から、ともかくカッサンドラがほぼすべての漢字を『なになに』に置き換えてしまっても、一ミリもがっかりしなかった。少なくとも、がっかりしたところを見せなかったし、イライラもしなかった。どちらかというと、それはカッサンドラの問題であり、自分のこととして考えていないからに見えた。一見突き放しているように感じられるかもしれないけど、実はカッサンドラにとって、非常にありがたいことである。

 自分が漢字を覚えなくて、先生が悲しんだりがっかりしたり、イライラしたりしたら、そして、それを避けるために漢字を無理に覚えないといけないとしたら、カッサンドラはうれしくないだろう。この先生のニュートラルさが、私はとても素晴らしいと思った。

 カッサンドラが、自分には日本語を読もうと思えば漢字があったってまあまあ読める能力があるんだ、意味が分かるとまあまあおもしろい、そう思って、まあちょっと読んでみようかな、という気持ちになることが大事だ。そのほうが、教えるほうも教わるほうもずっと心が軽くなるし、それは「誰かのため」や、「何かのせい」ではなく、自分自身がやってみようと思うことなのだ。それは、普段私が、子どものためと思いつつ、結局頑張ってくれないとがっかりしたりイライラしたりして、子どもに「母の機嫌」あるいは罪悪感と引き換えに勉強させるという形になってしまうことへのジレンマを、さっと解消してくれるお手本だった。

 

 これは日本語漢字教育に限った話じゃないけど、わが子があまりにもできなくても、大人ががっかりすることじゃない、と、肝に銘じたアトリエだった。